「イタいやつ」くらいがちょうどいい?

漆芸作家の活動の他に、ブログを書いたり、snsやったり
動画や図録を作ったり色々やってて、たまに思うことがあります。
「自分、イタいやつと思われてないかな?」これ実は切実で、たまに悩んだりするんです。
あらゆる活動が、漆芸制作に集約されていて、最終的に作品で勝負するという本質は変わらないので、
必要な活動だと思っているけど、
やっぱり「イタいやつ」というイメージがついて作品がクリアに見てもらえなくなったらどうしよう?
と思うこともあるんです。

今もなんだけど、以前はもっとイタいやつだったと思うし、
考えると、恥ずかしくて
穴があったら入りたい思いをよくしています。

でも、でもですよ、
このイタさって、たくさん行動しているという証でもあると思うのです。
要するに、恥ってのは誰かに会って初めて生まれてくるものだし、
目につく、耳に入るイタさっていうのも
行動によって生まれてくるものなんですよね。

それに、過去の偉人を冷静に見つめたら
やっぱり彼らもかなりイタい部分があったりします。
漆の巨匠で一例を挙げると
松田権六の自伝を読んでると、
どうしても岡倉天心に会いたくなった松田権六は
美術界の大御所(例えば横山大観とか)をたづねて「岡倉天心ってどんな人???」って聞き回っています。
結局、岡倉天心は病床で会うことかなわず、残念であったという話なのですが、
このエピソード普通じゃないですよ、なんだこの情熱は。

松田権六の武勇伝はこちらの本にたっぷり書かれていますので良かったらこちらをどうぞ。

恐れを知らない情熱を、冷静に見つめたらちょっとイタい感じもします。
今でこそ漆の神様みたいな人だけど、無名時代の漆青年に追っかけ回されていたのでは、病人もゆっくり休めませんよね。

最終的に松田権六のイタいほどの情熱は、漆芸の個人作家時代を開花させて
その後の影響を考えると、功績はあまりにも大きいのです。
若い時のイタさこそ、その後の財産にもなりうるのではないでしょうか。

「イタいやつ」くらいがちょうどいい