努力の方向が未来をかえてゆく その2

先日からの続き

努力の価値が無くなってゆく?
と書きましたが、正確に言うと、方向性の間違った努力の価値が無くなるということでうす。
例えば、少し前まで、学校の野球部は練習中、水を飲むことができませんでした。
想像してみてください。
真夏の練習中に水を飲まないなんて、今からしたら、拷問ですよ。
そんなことがつい最近まで行われていました。
ちなみに僕の高校時代はうさぎ跳びで階段を上るという、いかにも根性論的努力が続いていました。
そんなこと、少し考えたら膝を痛めるのは想像できそうなものです。

でも、やっている当人は努力をしていると考えています。
別に過去の練習方法を否定したいわけではなく、もっと合理的な時間の使い方や、努力の方向性があったのではないかと思うのです。
スポーツの例はわかりやすいですが、学校教育全体や、社会の仕組みなども方向性の間違った努力が沢山あるように感じます。

人間の努力のほとんどは人工知能や機械の機能向上によって価値が下がってゆきますが、
では僕たち人間の努力の価値が全く無くなるかというと、そうではなく、必要な努力もあります。
それは、、

続く