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読書で気づけること

このブログでは何度も「読書は最高の投資だ!!」と書いてきました。
この実感はやはり今も変わらずあるので、また書こうと思います。

いくつか読書の優れた部分を書き出してみると
メリット1
ーエア失敗を体験できるー
まさにこれに尽きるような気がしますが、失敗を学べます。
多くの成功者の本を読むと、100パーセントなんらかの失敗をしています。
で、これを読むことで、自分で失敗することなく、失敗を体験できます。
失敗は必ず訪れますが、無用な失敗や、すでに誰かが体験したことのある失敗は回避することができるので
このエア失敗体験とはとても有意義なのです。

メリット2
ーエア成功体験ができるー
上記と反対の体験、成功の体験も文書によって得られることができます。
成功者の伝記やマインドを読むだけで何になるのかと言われそうですが、
ポジティブな人のそばにいればポジティブになれるように、成功してるストーリーにはそれなりの力があります。

メリット3
ー未来が少しだけわかるようになるー
信じることができるようになるという方が正しいのですが、
人間って本質的には変化してないので、過去を知れば、これからどうなるかって少し気づくことができるように思います。

続く

ゴールはどこですか?

旅行へ行くときは必ず行き先を決めますよね。
まあ、ふらっとどこかへ行くというのもあると思うけど、
海外とか、しっかりプランを作って行動します。

でも、人生においてプランやゴールを決めている人って
案外少ないように思います。
人生には不確定要素が多すぎて、行き先を決めにくい部分もあるけど、
僕には行き先の無い人生の方がよっぽど恐ろしく見えます。
どんな職業だって、将来的にどうなりたいか考えて就くべきだし、
時代を考えながら生きていたら、今から目指さない方がいい職業はたくさんあります。
例えば、人工知能に入れ替わってゆく業種かどうかはしっかり見極める必要があります。

美術家に多い落とし穴は
一点の名作を作ろうとすること。
自分の仕事は作ることと決めてしまうこと。(作家=制作オンリー)
上記の二点は、多分間違いです。
成功した作家とか、学校の先生は「純粋であれ」と文書や講義で言うかもしれないけど、
それは本質を隠しています。
すごく綺麗事を言いたくなるのもわかるけど、本当はその先のゴールを見つめていないと勝てないようになっています。

僕が考える美術家(アーティスト)とは、ズバリ表現者です。(そのまま笑)
で、表現の領域は作品だけじゃなくて、考え方とか、生き方もしっかり表現されています。
美術史上、成功しているアーティストを思い浮かべてください。
よく考えると、しっかり顔まで思い浮かびませんか。
それは作品以上に存在感も同時に露出されているからだと思うのです。
周りの人が押し上げていると言う考え方もできますが、
ピカソとか、ダリって明らかにメディアを意識して生きていただろうし、
美術史はしっかり世の中との接点を正しく作れた人々の体系です。
それに変じゃないですか、何故そこまで執拗に自画像を描いたのでしょう。自意識強すぎる巨人の群れのような美術史が見えてきませんか?

時代によって考え方は変わってきます
メディアに出まくってる、芸能人化しているアーティストとかあまり好きじゃ無いけど
「表現領域を作品という枠に収めてしまわない」というのは、美術史の不変のルールでしょう。

作品がとにかくすごくて、後世の人々に詮索されるようなアーティストもいますが、
僕はそこまでの才能はないし、100%努力派でしかないので、おとなしく淡々と目指すゴールへ向かって毎日仕事部屋に入ります。

ゴールにたどり着くことができるかどうかはわかりませんが、
ゴールを設定していないと絶対にたどり着けないのもゴールですからね。
人生をかけて、背伸びして届くかどうかわからない目標の一つを決めちゃうのって、面白そうでしょ。

工芸作家2.0時代

これから本当に工芸が面白くなって行くと思います。
だって、著名人がこぞって工芸に関心を持ってくれているんですよ。
例えば、現代美術の村上隆さんや
スポーツ界では中田英寿さん。
ブロガーのイケダハヤトさんとか。

長年工芸に携わっていると
「ん?何が起こり始めたの?」
という感覚と同時に
「やっと気づいてくれましたか」という思いもあります。
というのも、ここ7年くらいで工芸を取り巻く環境というのが急速に変わってきてて
少しだけ追い風が吹いています。
これは別に政府や大きな団体の後押しがあるということではなくて、
イケてる人が、イケてる工芸に注目してくれはじめたということ。

で、ここにこれからの工芸を考える上で重要な伏線があると思っていて
まず、今までの権威の中から何か新しいものが生まれるってことは、きっともう無い。
あとは、旧来の工芸のイメージを良い意味で持っていない作家が生まれはじめている。

「公募展の時代は終わった」と何十年も言われていたそうですが、
やっぱり引きずり続けていたんですよ。権威の構造を。
でも、それではどうも行き詰まりだと気がついていたのだけど、
今まで続けてきてしまっていた。
バブルを知らない世代の作家はある意味で
憧れるものは素材と作品だけしかなかったんですよ。

「売れてる作家さんかっこいい」みたいな感覚がないから、
純粋であれたし、
経済的なリスクを負ってでも勝負をしたいと思う、
気骨のある作家しか挑戦しようのない土壌が自然と作り上げられていたのでしょう。

結果的に僕たちの年代の作家には、いい意味で前提がないから
より自由だし、程よくふるいにもかけられているから、
スピード感もあるんだと思います。

これからの工芸は権威によらない
面白い状況になってゆくと思います。
近いうちに、工芸は日本を代表する芸術表現として世界に認めらるでしょう。
その時に「蒔絵」も日本代表のイケてる工芸分野だと認識してもらえるように
日夜努力をしているわけです。

工芸作家という職業の意味合いはここ三年くらいで急激に変わります。
工芸作家2.0はもう始まってますよ。

努力の方向が未来を変えてゆく その3

先日からの続き

人間の努力はどれだけ未来に通用するのか。
いや、どのような方向の努力が必要になってゆくのか。
僕が考える少し先に必要になる努力の方向は、
ニッチ化だと思っています
ニッチとは、

ニッチ(英: niche、フランス語読み:ニーシュ)は、生物学では生態的地位を意味する。1つの種が利用する、あるまとまった範囲の環境要因のこと。

(wikipedia 参照)
ちょっとわかりにくいですが、ビジネス的にはより狭い範囲の住み分けというようなニュアンスで使われています。

今までだってニッチであることは重要でした。
例えば、ポップス、ロック、アイドル系みたいな。
でも、こういう住み分けってさらに細分化されていますよね。
もはや「国民的アイドル」とか「国民的歌姫」なんて登場できないんですよ。
それだけ多様な情報の時代になってきているわけです。

しかし、努力の方向性に関してはそこまで多様になっているようには思えません。
特に学校教育はどうも時間の投資や費用の投資的に十分なリターンを返せなくなっているように思えます。
僕には総合的な教養を小学校から大学まで教える意味がわからないんです。

ニッチ化=トガることが必要なんですよ、努力にも。
ある一定の興味があるなら、そこに労力と時間を注ぎ込むことこそこれからの生きる意味になるのではないでしょうか。
だって、学校の教育なんて相撲取りにマラソンを強要しているようにしか見えません。

僕は漆に生きることに未来を感じています。だからその世界観の中で生き生きと努力していたいんですよね。

努力の方向が未来をかえてゆく その2

先日からの続き

努力の価値が無くなってゆく?
と書きましたが、正確に言うと、方向性の間違った努力の価値が無くなるということでうす。
例えば、少し前まで、学校の野球部は練習中、水を飲むことができませんでした。
想像してみてください。
真夏の練習中に水を飲まないなんて、今からしたら、拷問ですよ。
そんなことがつい最近まで行われていました。
ちなみに僕の高校時代はうさぎ跳びで階段を上るという、いかにも根性論的努力が続いていました。
そんなこと、少し考えたら膝を痛めるのは想像できそうなものです。

でも、やっている当人は努力をしていると考えています。
別に過去の練習方法を否定したいわけではなく、もっと合理的な時間の使い方や、努力の方向性があったのではないかと思うのです。
スポーツの例はわかりやすいですが、学校教育全体や、社会の仕組みなども方向性の間違った努力が沢山あるように感じます。

人間の努力のほとんどは人工知能や機械の機能向上によって価値が下がってゆきますが、
では僕たち人間の努力の価値が全く無くなるかというと、そうではなく、必要な努力もあります。
それは、、

続く

努力の方向が未来を変えてゆく

努力ってかっこいいし、美しいですよね。
そんな努力ができる自分も好きです。

でも!
どんどん努力の質や方向性が問われる時代になって来ました。
努力神話は根強くて、勤勉さや努力が成果に紐づけられる教育を受ける機会が多いですが、
実際、努力には価値がなくなってきたのは事実です。

世界中で労働時間の短縮化がすすめれれていて
これから機械化できる分野、AIが担える分野においては
人間の出る幕は極端に減少してゆくでしょう。
すると、さらなる労働の短縮化が進んでゆきます。

つまり、能力的に人間が機会に勝てる部分というのは極端に減ってゆき
努力の量だって、休まないし、文句も言わないし、眠らない機械に人間は太刀打ちできなくなります。
なので、僕たち人間ができる努力など少し先の未来には意味がなくなってしまいます。

続く

また不登校をすすめてみる その2

先日からの続き

小学校・中学校の学習期間は不要ではないか?
というところで締めくくりましたが、
当然、学校が好きな人は行けばいいし、そのことに対しては100パーセント肯定できるんです。
問題は、学校が嫌いな人が学校に行くということです。
特に、小学校と中学校は多くの場合
その地域に住んでるランダムな同学年が集まる仕組みなので、
学力の差や身体的特徴、性格などの個別の能力に全く最適化されていません。

実は「義務教育だから行かなければならない!!」と大人から叱られても
「それは何かおかしいのではないか?」と疑問を抱く子供もいます。
僕自身、確固たる信念を持っていたわけではないけど、
「この仕組みはなんだか違うな」というのを感じていたし
「もっと効率の良い学びはあるはずだ」と思っていました。
それに、周辺の大人ほど悲観的ではなかったのです。
学力に関しては追いつける気がしていたので。

そろそろお気づきかもしれませんが、
この記事は不登校の本人とその両親のために書いています。


不登校って両親が悲観することはないし、
本人が卑屈になる必要はありません。

むしろ、ある目的のために、必要なことをするために学校に行かないというのは良いことだと思います。
一般教養、特に中学校までの勉強なんて高校に入ってから半年くらいで追いつけるし、
苦手な時間や苦手な空間で長時間、最適化されてない勉強をするのってすごく非効率です。

それより、単に好きなことをしている方がいいのではないでしょうか。
例えば一日中ゲームしてても、それだけの集中力があると考えればいいでしょう。
そこからゲームクリエイターになるという進路もあるわけだし
漫画読んでいても、テレビばかり見てても、ネットばかりしていても
夢中になれるものがあるならそれはいいことだと思います。

そのような人を惹きつけるメディアというのは間違えなく、これから成長を続ける産業なので
まずは消費者としてとことんハマる経験というのは人生において必要な期間です。

僕にはまだ子供がいないから、説得力ないかもしれないけど、
人生の前半戦で不登校だって、全く!問題ないというのは言えます。
自分で選択できる高校から学びをスタートさせてもいいんじゃないでしょうか。
最近は色々特徴のある学びの場が出てきていますが、
オススメは僕の母校です。
スクリーンショット 2017-12-31 14.11.16

http://www.kibikogengakuen.ed.jp

また不登校を勧めてみる

何度か書いてきましたが、
僕は不登校でした。
小学校の1年から中学の3年まで、
9年間学校に行きませんでした。

よく「なんで卒業できたの?」とか
「え!?すごく普通に見えるけど?」とか聞かれますが、
今の僕を知っている人にはどう見えているのでしょうか。
現状ではそんなに悲惨な人生には仕上がっていません。。自分ではそう思っています。

ちなみに義務教育の9年間というのは保護者や社会が子供に学習期間を与える義務の期間なので
休んでいても卒業できます。
ようするに、義務といっても、子供本人の義務ではありません。
あと、
小学6年生の大人なんて見たことありませんし、いません。
日本の場合、留年とかもないですよ。たぶん。

では、小学校・中学校に行かなかったらどうなるのか
ちなみに僕は、短大だけど国立の大学を卒業できましたし、美術系の学位も持っています。
(学歴が武器になるわけでは全くないですが)
何が言いたいかというと、不登校って一般的に思われているより状況は悪くありません。
少なくとも小学校と中学校の学力や社会性なんて、ほんの数年で手に入ってしまうものだということです。
いや、もっと言ってしまえば、いらないことが多すぎます。

続く

続きはこちら

覆うこと

外を歩いている時「ああ、綺麗だなー」って思える時ってどんな時でしょうか。
例えば、冬だと
朝、霜が降りた公園の草に朝日がキラキラ
音もなく舞い散る雪に覆われる街並み
短い昼間の斜めから入る光が陰影をハッキリうつすようす。

僕はこういう光景に「ああ、綺麗だなー」って思います。
この感動には共通点があって、それは日常に少しの違いが生まれた瞬間
霜も雪も日常を少しだけ変えているだけだけど、それでもなんか美しい。(豪雪地方は少しじゃないか。。)
夕方の短い時間もやけに日常を赤く、そして陰影をくっきり見せてくれる。

で、気づいたんです。
僕の感動ポイントは、覆われている状態なのかなーって。
あまりにも抽象的かもしれませんが、例えば、女性がジュエリーをつけるとその女性もジュエリーも美しくなるようなもの。
日常にちょっとしたベールがかかることで、いつも見ていたものも少しだけ違う視点で見えることがあって、それに美を感じています。
つまり、「何かが日常や見慣れたものを覆っている状態に反応しているのかも。」と感じたのです。

最近僕の作品は特に過剰装飾的になっていますが、それも覆う感覚を表現しているとも言えます。
作品に美をまとわせているような感覚です。

時代がどんどんシンプルな方向へ向かう中、日常に圧倒的な美を纏うことが僕の物作りの根源だったのかな
冬の朝の散歩道でそんなことを感じました。

後の世界を予想して、物作りの明日を考える。 その2

昨日の続き 前回記事はこちら
前回記事では
お金と時間が余る未来が来るのでは?と締めくくりました。
この流れ、いってみれば自然で、僕が小学生の頃は普通に土曜日大人は仕事だったのではなかったでしたっけ?
以下ネットで調べてみた結果

1980年代頃より土曜日を休日とする週休二日制(週五日制)が広く採用されるようになった。
1989年2月4日から銀行の土曜日の窓口業務を中止
1992年5月1日から国家公務員の完全週休二日制を実施
2002年度から公立学校でも土曜日を休日とする完全学校週五日制を実施

そうです、僕が物心つく頃から
休みはどんどん増えています。
お金に関しては、バブルがはじけてからそこまでの躍進を感じられない日本ですが、
相対的に豊かなことには変わりはないですし、格差は開くかもしれないけど
金銭的に余裕のある人は増えるように思います。

さて、ここからが物作りの未来の展望ですが、
ものを作るということ、美を楽しむということ。
これは人間の持つ根源的な欲望なので根幹は変化しないように思います。
ただ、あらゆるメディアに芸術的価値が認められるようになるので、多様な価値観のもと発展し加速してゆきます。
娯楽のアート化は顕著で、ブログやインスタ投稿などの芸術性が認められるようになるかもしれませんね。

手作りの物に関しての需要も伸びると思っていて
今までの権威が崩壊して、何らかの民主化が始まるかもしれません。
例えば、僕は日本史上最も影響力のある芸術家は千利休だと思っているのですが、
利休の作ったものは、お茶の芸術性を中心としたコミュニティだと思っています。
ただの喫茶サロンではなく、政治や娯楽や権威や経済などひじょうに多くの要素を含んだ強力なコミュニティを作り
その頂点に君臨し続けた人だと思います。

そのようなコミュニティがネットを媒体に生まれて来るように思えます。
今も「booth」や「TAGBOAT」のようなサイトがありますが、
より本格的なアート市場がリアルからネットに移ってゆくと思います。

人間が持つ根源的な欲望である美と物作り
そしてネットインフラが繋がり、何らかの民主化が起きたら、
とんでもなく格差のある美術市場が生まれ、さらに多様化してゆくことでしょう。
作り手はよりニッチになり、物と同時に事を作ることが求められてきます。

今もだって、そうなんだけど、明日はもっと尖った作家でなくてはならない未来が来るように思うのです。