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「月刊美術」 今月は工芸特集

月刊美術6月号に紹介していただきました。
今月の特集は、、
「「用の美」× 超・工芸」

現代の使える工芸ってどんなアプローチなのか?
というテーマで、若手作家の作品が紹介されています。
僕の作品は二点が紹介されています。

その1点が万征さんとのコラボ作品
蒔絵酒器「徳倶利伽羅龍」

脚部分の龍が万征作
上部の器が浅井作


この作品は、二人で打ち合わせで作り上げました
「何作りましょっか?」
「実際の使用より、美意識を優先した攻めの作品を作りましょう」
「攻めましょう!」

みたいなノリから
万征「人が酒器を持ってるみたいなのどうでしょう」
浅井「ほうほう、以前作ってた力士の作品みたいな」
万征「そうそう」
浅井「面白そうですね」

少し沈黙

万征「龍ってのもいいかもしれませんね」
浅井「あ、前作の倶利伽羅銃の作品みたいな?」


万征「倶利伽羅龍・・・あ、トックリカラ龍って面白くないですか?」
浅井「とっくりからりゅう??」
万征「倶利伽羅龍と徳利をかけて」
浅井「徳利から龍が出てくるってこと?」
万征「そうそう、ニョキっと龍が出てきて酒器を支えてる感じ」
浅井「なるほど、酒器のイメージとぴったり」


というわけでテーマが決まって行きました。

さて、万征さんと僕は東京と京都で活動しているので、
お互い作品を持ち合って、途中確認することができません。
僕の作品の接合部分を形どって送り、そこに合わせて脚を作ってもらう。
僕は僕で器部分を進めてゆく。

そんなある日、、、
届いた小包を開けてみると、
入っているんですよ、龍が。。。
「スゴすぎる」「完全に器が食われた。。。」
という絶望。

合わないんです。酒器と脚が。。
しばらく冷静になってお互いの長所を生かす対策を考えた後、
器の側面に雲形の模様を蒔絵することにしました。
そして完成した
万征×浅井
蒔絵酒器「徳利伽羅龍」!!

徳利から龍が生まれて、
雲を突き抜けて、宇宙に届き、漆黒の中のきらめきにお酒が満ちてゆく。
緊張感のあるコラボ作品でした。
いや、寿命が縮まる思いでした。

作品の発表は月刊美術6月号で

作品は誌上販売されています。
合わせて、もう一作品
蒔絵酒器「夜の海」も発表しています。
この作品は8点作ったうちの最後の一個です。
誌上でご覧いただけましたら幸いです。

なぜ若手作家は消えてゆくのか

高校生の時から美術の世界を眺め始めて
自分もその中の人になってみると、
色々なドラマを目撃して来ました。
その中で、美術のストーリーから脱落してゆく(脱落という言い方には語弊があるかもしれないけど)作家を幾人も見て来たわけです。
彼らは確かに、若手アーティストとして輝いていて
そして、心から憧れたけど、生き残ることができたのはほんの一握りで
いくつかの段階を経て、みんないなくなってしまいまして。

今話しているのは、大学なんかを卒業した後に作家として活躍していた人たちです。
彼らが目に見える場所からいなくなる段階とはどんなだったのか。
自分の長期活動を考えた時に、彼らが身をもって示してくれた教訓を生かす必要があると考えたのです。

一体何が起こっていたのか。

それは、、

作品が売れなくなってしまう

第一に表舞台からいなくなる理由は、売れなくなることです。
長期的な付き合いのあるギャラリーだって、売れない作家とそれ以上の付き合いを続けてゆくことはできません。


売れなくなる理由は複雑で、人の心の中にあるので一概に言うことができないのですが、
僕もいちコレクターの目線として、興味を失ってしまうタイミングがいつなのか考えてみると。

一作品で満足してしまう
不思議なことに、作品を購入して、さらに追加で買いたいと思える作家と
そうで無い作家がいます。

価格が見合わなくなる
ある一定の年齢になると、価格が上がったり
キャリアによって価格が上がると、ある段階で値ごろ感が失われる感じがあって、
それが購入の妨げになることは多いです。

作品がマンネリ化する
ここは難しいのですが、作風と展開の中でとめどなく揺れ続けるのが
作家でもあります。つまり、自分の作風を築いて、そして人気をはくすけど、
そこに一生閉じこもっていることはできません。
一貫した作品の印象が貫かれていても、変わり続けなければならないけど、
からを破ることができなくなってくる。

若くなくなる
これはどこの世界でも言えることだと思うのですが、
若さが武器になる部分はあります。
「若い人を応援したい」と言う、気持ちを持ったコレクターさんはたしかにいて、
作品が良いことは前提だけど、「若さ」に対する支援として購入してくれる人もいます。
だけど、若さは有限だから、ある段階でコレクターが自分より年下という状況に移行する必要があります。
その段階がうまくいかないと、生き残ることができません。


美術は人間のストーリーなので
割り切ることができない部分が多いけど、
一貫した信念が無く走り続けるには、作家人生は明らかに長いのです。
上に記した、作家が突破しなければならない壁を超えてゆく答えを自分なりに出してゆき、
同じ時代を生きる蒔絵の現在を強力に世界に向けて発信し続けること、
それが自分にはできると思えるんです。
1度目の答え合わせは僕が40代になった時でしょう。

「イタいやつ」くらいがちょうどいい?

漆芸作家の活動の他に、ブログを書いたり、snsやったり
動画や図録を作ったり色々やってて、たまに思うことがあります。
「自分、イタいやつと思われてないかな?」これ実は切実で、たまに悩んだりするんです。
あらゆる活動が、漆芸制作に集約されていて、最終的に作品で勝負するという本質は変わらないので、
必要な活動だと思っているけど、
やっぱり「イタいやつ」というイメージがついて作品がクリアに見てもらえなくなったらどうしよう?
と思うこともあるんです。

今もなんだけど、以前はもっとイタいやつだったと思うし、
考えると、恥ずかしくて
穴があったら入りたい思いをよくしています。

でも、でもですよ、
このイタさって、たくさん行動しているという証でもあると思うのです。
要するに、恥ってのは誰かに会って初めて生まれてくるものだし、
目につく、耳に入るイタさっていうのも
行動によって生まれてくるものなんですよね。

それに、過去の偉人を冷静に見つめたら
やっぱり彼らもかなりイタい部分があったりします。
漆の巨匠で一例を挙げると
松田権六の自伝を読んでると、
どうしても岡倉天心に会いたくなった松田権六は
美術界の大御所(例えば横山大観とか)をたづねて「岡倉天心ってどんな人???」って聞き回っています。
結局、岡倉天心は病床で会うことかなわず、残念であったという話なのですが、
このエピソード普通じゃないですよ、なんだこの情熱は。

松田権六の武勇伝はこちらの本にたっぷり書かれていますので良かったらこちらをどうぞ。

恐れを知らない情熱を、冷静に見つめたらちょっとイタい感じもします。
今でこそ漆の神様みたいな人だけど、無名時代の漆青年に追っかけ回されていたのでは、病人もゆっくり休めませんよね。

最終的に松田権六のイタいほどの情熱は、漆芸の個人作家時代を開花させて
その後の影響を考えると、功績はあまりにも大きいのです。
若い時のイタさこそ、その後の財産にもなりうるのではないでしょうか。

「イタいやつ」くらいがちょうどいい

漆器の扱いで絶対やってはダメな事3つ リライト記事

漆器はあつかいが難しいというイメージをもたれます。
たしかに、陶器や磁器、ガラスの食器よりある面では弱いかもしれません。

ただ、作っている側からすると「思ったより丈夫だな」と感じる事が多いですよね。
良いものを長く使うために扱いの中で絶対やってはならない事をまとめてみます。


ダメ絶対その1

漆器にフォークやナイフはNGです!
少し考えてみたら解りますが、漆の塗膜にフォークやナイフでガリガリとやれば傷がつきます。
以前ある作家さんが、レストランとのコラボレーション企画で自作の漆器を貸したところ、傷だらけになって帰ってきたという話を聞きました。
その作家さんの気持ちになると、胸が締め付けられるような思いがしました。
おいしい料理を作る想像力があるなら、食器を扱う場合の想像力も働かせてもらいたいものです。

いちばん漆器×フォークをやってしまうパターンは和菓子のときだと思います。
漆の小皿にのせたようかんなんてとてもおいしそうでしょ?このときついついフォークを出してしまうのです。
あとは、漆器の小鉢に入れたアイスクリームです。考えただけでおいしそうです。朱の器に入ったバニラアイス。。いいね!
このときついつい金属のスプーンを使ってしまいがちです。
木製の菓子切りやスプーンの準備が必要となりますが、漆器を傷つけないで長く使うためには必要となってきます。


ダメ絶対その2

直射日光あてっぱなしはNG
漆はとても優秀な塗料です。どれくらい優秀かと言えば。1度固まった漆はどんなに強い酸をかけても溶けません。
地球上で1度固まった漆を溶かす事ができる物質はまだ存在していないと思います。
ただ、天然の樹液なので、自然に戻ろうともします、つまり紫外線によって分解してゆきます。
といっても数年単位数十年単位の分解なので、物がなくなるといった事はありません。
紫外線の影響で艶が無くなってしまった古い漆器をよく見かけますよね、
白っぽくなってしまうので、日差しが強い場所に置きっぱなしにするのは良くないです。

わかりやすい例でいうと、屋外にある寺社仏閣の朱塗りや黒い漆が白っぽくなって艶が無くなっているのをご覧になった事があると思います。そのような場合は塗り直しが前提となっており、定期的に塗り直しがおこなわれています。

食器は外に置きっぱなしという事は無いと思いますが、保管場所について気を使っていただけるといつまでもしっとりとした艶のある漆器を楽しめます。


ダメ絶対その3
 
冷蔵庫と電子レンジ

恥ずかしい話なのですが、以前木製の食器を冷蔵庫にいれて割ってしまった事があります。
冷蔵庫の中は温度が低い事はもちろんですが、湿度もとても低いようです。
漆器のボディーは多くの場合、木でできています。その木にストレスを与えてしまうと割れが生じてきます。
電子レンジも漆器の中に含まれている水分が反応して壊れてしまうでしょう。顔料の変色も考えられますので電子レンジはだめです。
食器洗浄機も良くないと言われています。たぶん乾燥の段階で熱風をあてられると思うので漆器には適さないでしょう。


以上3つのダメ絶対を守れば長い間漆器を使い続ける事ができます。
美しい漆器を大切に使って次の世代に、物を大切にできる日本の精神を器と一緒に手渡して下さい。

「漆の現在 2018展」 展覧会のご案内

久しぶりに展覧会のご案内です。

以下公式HPより

日本橋三越本店
本館6階 美術特選画廊

「漆の現在 2018展」

今日、日本の漆芸作家の作品は海外から大きく注目されるようになりました。この展覧会では工芸評論家・外舘和子氏が監修し、日本各地で制作するベテランから新進気鋭の作家まで、会派や世代を超えた約50名による作品を一堂に展覧いたします。現在の日本の漆芸をご覧ください。

○関連イベント
外舘和子氏と出品作家によるクロストークを開催します。
■5月20日(日)午後2時~
(僕も参加予定です)

○会期
5月16日(水)~22日(火)(最終日は午後5時閉場)

ウェブで図録を見ることができますのでご覧ください。

https://my.ebook5.net/mitsukoshi/arturushi180516/

※僕の在廊予定は20日(日)の午後からです。
どうぞよろしくお願いします。

漆の一般化は必要ない

漆業界における慢性的な問題点があるとすれば、
それは過度の一般化を目指すところです。

実は、日本において漆は十分に一般化した存在だと思っていて、
逆に一般化しすぎているのではないでしょうか。
考えてみてください。
漆という大量生産が難しく、高級な素材を使ったアイテムが、一般化している時代が過去どれくらいあったでしょう。
高度成長期を除いたら、過去、封建的な社会体制の中、一般の人が漆器を持つことは極めて難しかったのではと推測しています。(もう一度バブルが来たら漆器が飛ぶように売れる時代が来るかもしれませんが。)

大量生産品の陶器に対して漆器のコストがどれくらいの比率だったかわかりませんが、
日本という木材が豊富な国であっても、過去頻繁に一般的に漆器を使っていたとしても、
轆轤挽きの椀に数回の拭き漆がしてある簡素なものが限度です。

では現代では、あらゆるデパートに漆器売り場があります。安価なものから高級なものまでありますが、
一般的な暮らしをしていて、買えないほどではありません。
つまり、「一般にまで漆器が浸透していて、これ以上どこを目指すの?」という疑問に
「さらに安価なものを製作してより多くの一般人に広める」みたいな答えしか出てこない状況に陥っています。
この考え方の危険なところは
顧客のモデルが全く無いところです。
一般化って何でしょう?
一般人とは誰でしょう?。。。。。
一般人なんて、いませんよ。
僕とあなたがいるだけです。

だから、僕は常に誰かと対話するために作品を作ってきました。
多くの人に向かっては無いけど、本当に蒔絵の文化や美意識に関心を持ってくれている、
一人一人と話してきたつもりです。

どこにもいない誰かのために
「安ければ売れる」というマーケティング続けていたら、漆は無くなります。

手軽に写真が写せる時代だけど、手描きのスケッチが必要な理由。

僕の作風は幾何学的な印象を持つ人は多いと思います。
ただ、長年続けていることがあって、花のスケッチ続けているんです。
意外かもしれませんが、季節の和花を描き溜めています。

さて、スケッチですが、蒔絵師だから必要な仕事であります。だけど、
デジカメやスマートフォンで手軽に写真を残せるのに、なぜ今だに手描きが必要なのでしょう。

まず、絵画手法として、蒔絵の場合線描的な表現が得意な分野とも言えます。
もっと言えば、日本美術全体が2Dの世界観なので、立体物をいかに線描で表すか、
そして抑揚をつけることができるか、という美意識が根底にあります。
なので、花のような立体物を線描だけで描くというのは、とても良い訓練になります。

もう一つは、実は手で描くというのは情報量が多いんです。
「写真の方が情報量が多そうだけど。」と思われるかもしれませんが、
実は、写真の情報量で、僕は作品を作ることができません。
なぜ手描きが良いかというと、単純に得られる情報というよりも、
描くときの情報収集が多いことが結果的に、スケッチの情報になるからだと思います。
例えば、描いていると、花びらの構造を見ても、どうも腑に落ちない時があります。
そこで色々な角度から再度、観察して線描を進めます。
そういう過程を繰り返しながら描くので、描くと同時に構造の理解が深まります。
一方で写真だと、情報の正確性はありますが、角度を変えて観察することができないので
情報の性質が、スケッチと違って、結果的に作品に落とし込むことができないのです。

最後に、意匠化できるかどうか、という問題があります。
実物のものをそのまま写して、それをそっくり作品に落とし込むことができたとしても
作品にならない場合があります。
仮に、人差し指を立てて、それをまっすぐ自分の方向へ向けて見てください。
そして片目で見たときこちらに向いている人差し指はただの丸に見えませんか?
実際、自分の目で見ているので、「ああ、これは指が自分の方向に直線的に向いているから、丸く見える」と納得できますが、
絵画的には表現するのがかなり難しいんです。
なので、実際にただの丸に見える場合は、角度を変えて構図を作ってやります。
そういうときに、手描きの場合、観察を元にした情報が揃っているので、それが可能なんです。
そして、意匠化するときに何も見ないで、対象のものが描けるようになっていれば、
そこに吹く風の動きや、空間を描き出すことができます。

で、その見えていない情景こそが、表現したい本質だったり、
気持ちだったりします。
めんどくさい、古臭いやり方ですが、スケッチは理にかなった情報収集なんです。

一緒に仕事をしたいと思える人・したくない人

僕は自由業みたいなものなので、
会社勤めの人より、人付き合いについても自由な部分が多いと思います。
だから、はっきり言って、好きな人としか仕事しないし、嫌だと思えば断ることも多いです。
同時に、お客さんやギャラリーとの関係も「違うな」と思えばやめてしまえばいいと思っています。
誰かに合わせて、消耗して良いものが作れると思わないので。

さて、僕の小さな世界の中でも色々な業種の人と繋がって
物を作って、発表しています。
その中で、当然ながら
「この人、仕事しにくいな」と思う人
「この人のパフォーマンスすごいな」と思う人がいるわけです。
で、この違いとは何かと考えると。

最終的に、一つの究極の要素にまとめることができると思います。
それは、
「昨日のベストの少し先の仕事をしているか」
というのに尽きるのではないでしょうか。
完璧な仕事をできる人はいません。どんなプロフェッショナルだって、
ミスはしますし、ムラがあるのは当然です。
ただ、どの業界にも言えるのは、自分の限界を少しでも越えようと思う人は成長してるし、
結局のところ仕事がしやすいのはそういう人です。

当然、ベストの更新をし続けるのって、苦しいんですよ。
勉強もしなければならないし、失敗のリスクや、コスト計算したら赤字ってこともありますし、、、、
別に外注先に損してほしいとは思ってないけど、
一緒に仕事していて、楽しいのは、やっぱり成長し続けてる人だったり、業者さんなんです。
僕のいる業界は、いい意味でも悪い意味でもアーティスティックな人が多いので、
わがままな人が多いんです。で、平気で締め切り破ったり、パフォーマンス下がったりする人が多いんです。本当に。
僕もプロなので、仕事の内容でどれくらい力入れたか、すぐわかります。
それで、長期的に見たら、そういう人や業者は衰退してゆきます。
今はネット社会なので、口コミがとても重要な時代です。伝統工芸の世界ではまだネットが入り込んでない分野も多いから
口コミで人気になったり、反対に衰退することも少ないですが、淘汰の時代はすぐそこまで来ています。
今までのように、代々の知名度や地域的な優位性(有名な産地)で勝負できない時代になります。

そんな時、必ず「一緒に仕事をしたいと思える人」しか生き残って行けないんです。
今回、根付作家の上原万征さんと一緒に仕事させていただいて、
仕事からヒシヒシとプロ意識が伝わってきました。
「またこの人と仕事できたら幸せだな」そう思えました。

だって、この仕事見たら、俄然張り切っちゃいますよ。

活動に一貫性を与えるためには、大量の行動が必要になる

人間は一貫性のある人を信じやすい特徴があります。
例えば、僕が漆芸家だけでなく他に色々な分野に手を出していたら
コレクションしにくい作家になってしまいます。

スポーツもそうですが、間違いなくプロのスポーツ選手は運動神経がずば抜けて良いので、
専門以外のスポーツもうまくこなすことができると思います。
過去、マイケルジョーダンが、なぜかプロ野球選手になったことがありますが、
「そんなことするくらいならバスケをもっと見せてくれよ」と多くの人が思ったでしょう。
つまり、期待されていることを一貫している姿に、人はプロ意識を感じやすいのではないでしょうか。

しかし、一貫していることは常に危険をはらんでもいます。
美術の場合一つの作風で一生食べてゆくのは難しい。
スポーツの世界だって、やはり変化をしながら進む必要があります。
イチローほどの人だって、毎年プレースタイルに変化を持たせなければならないのですし、
美術の世界もピカソほどの巨人があれだけ作風を転回させたのですから感服させられます。

だけど、私たちは生身の人間で、一貫している部分とそうでない部分を同時に持っています。
理想としては一貫していたいのだけど、そうもいかなかったりします。
それに、身近な人だと、ある種の一貫性の無さが、意外性みたいにな魅了になる場合もありますよね。

ネットのメディアが発達してくると、
この一貫性と意外性を上手に伝えられる人が人気を博しているように思います。
毒舌のホリエモンが健康に関する情報をサラリと発言したりすると、
なんだかやけに人間味を感じたりします。
このように、多くの発言の中に見える意外性と一貫性が
ネット上で、ぼんやりと人間性?のようなものを生んでいるような気がするのです。
少なくとも、僕はそれを感じるのです。

パーソナリティを伝えるためには、小さなエピソードの積み重ねが重要で
そのために大量の行動をとる。
それが一貫性や魅力を生むんですよね。
現実の世界でもネット上でも。

漆芸の二つの基軸

特に漆の場合、作品の幅を持たせようとした時に、作品の性質がガラリと変わってしまうアプローチになってしまうことが多いんです。
これは、先にも書いたように、漆という材料が食器として優秀すぎるからなんです。
結果的に、全く違う基軸の作品を作ってしまう場合が多いんです。
でも、実はそれがとても危険で、現代漆芸苦境の原因だと思っています。

荒っぽくいうと、
ベンツと軽自動車は別の会場で売りましょう。
ベンツは軽自動車を作ってはダメです。
というわかりやすい話です。

なぜ今、作品の性質のことを書いているかというと
身近な人に「実用品を作っては?」と言われることがとても多いからなんです。
で、すごく作りたいんですよ。
身近な人に喜んでもらいたいですからね。

でも、割と早い段階で、実用的な漆器をやめたんです。
それは活動の一貫性が保てないからです。
その決断が正しかったかどうかの答えは10年後くらいに出ているでしょうか。