カテゴリー別アーカイブ: 思う事

ビジュアルとコンセプト

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今回参加させてもらっている「美の予感」展ですが、
参加作家はみなさん同世代の作家です。
ギャラリートークや懇親会などでたくさん話すと、
つくづく「みんなすごいな!」と思うことが多かったです。

とにかく、30代半ばまで作家として生き抜いているので、
表現はもちろん、コンセプトががっちり構築されているという印象を強く持ったのです。
で、その部分って伝統工芸には弱い部分なのです。
僕のように伝統工芸の世界で生きていると、どうしても誰かに自分の仕事を伝える時に
「技術」と「材料」の話になってしまいます。
いや、それに終始してしまうことがほとんど。
もちろん愛情が強いだけに、そうやって伝えたいし、
受け取る人もその部分に重きを置いてくれていると思うのです。

ただ、もう少し広く「表現内容」や「コンセプト」と言った、美術寄りの話ももう少し話す必要があると感じました。
伝統工芸だからコンセプトが弱いというわけではなく、
話のウェイトが「技術」と「材料」に寄っているだけで
伝えたい、表現したい「コンセプト」もあります。

僕の理想とする表現の形は
圧倒的なビジュアルの中にコンセプトが内在する作品です。
コンセプトはある。だけど、それを前面に押し出す必要はないくらいの圧倒的な美を蒔絵で表現したいんです。
2017年最初に刊行した図録には作品のコンセプトを記したつもりです。
作品をきっかけにその中にある作者の想いも届けられたら良いなと思います。

今回の展覧会に参加したことにより、
もっと自分にとって、そして見てくれる人にどのように僕が作品を通して伝えたいことを
全身で表現することを学びました。

売れる作家と売れない作家

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実力が同じくらいでも、売れてる作家と、そうでない作家がいる場合、
その理由はなんなのか。
「そんなことがわかれば、誰も悩まない」と言われそうです。
確かに、そうですよね。

でも、実際に美術の世界は、いつの時代も二極化していて
一方は大家
一方は食えない業界というイメージ。
違いがあるとしたらきっと、
「今買わなければならない作品」もしくは
「今買わなければならない作家」であり続けることができるか、ということだと思います。

完売作家だと、もちろん「今買わなければ」となるのですが、
皆が、最初からそうではないので、ある時期から「今しかない」と思わせる雰囲気を
作品や作家から感じられるようになるはずです。


僕は以前作品から「今買わなければ」と思うものがあって買った作品があったのだけど
その作家は過去の人になってしまいました。
あの時は輝いているとおもったのに、時の流れは残酷です。
きっと彼は再度浮上してくることなく、僕の持っている絵の評価も買った時以上に上がることはないでしょう。

何が言いたいかというと、
作品には確かに「今買わなければ」と思わせるものはあったのです。
ただ、作家活動を通して、強い前進や人生を貫くようなビジョンがなかった。
いや、伝えきれなかっただけかもしれない。
売れるというのは、作品の良さというのは前提で、
さらに作家の活動や、ビジョンがあって成り立つものです。

誰かのストーリーを楽しむなら、
その主人公は魅力的なほうがいい。いつも新しい戦いに進んで飛び込んで欲しい。
作品は短編かもしれないけど、人生は長編の物語です。
その時々の「今」があって、
その「今」を共有できる力こそ
売れる作家に必要な力でしょう。

小手先でコントロールできない、
生身の人間の「今」が作品になるから
「今買わなければ」と思わせてくれる、何かが作れるはずです。

プロ意識

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フリーランスでも企業に所属している人でも、
出世する人は支払う対価に対してサービスが優っている人。
つまり、提供できる価値が常に高い状態を作り出せる人です。

僕も一応プロとして活動しているから、
仕事の質と意識に常に気を配っています。
そして、あまり便利ではないのですが、
他人のプロ意識も丸わかりになります。

他の作家の作品のそれを理解するならいいんだけど、
日常のサービスにも敏感になってしまいます。
例えば、料理屋のサービスとか、
エンターテーメントの質とか、
気になってしまうことがあります。

別に口にはしないけど
「こうしたほうがいいんじゃない?」ということは多いです。
逆に「すごいサービスだ嬉しい!」と思うこともあります。
その仕事に夢中になって、熱心に取り組む人は魅力的です。

人生の中で仕事している時間は長い。だから
今自分のやっていることを極めようとするのは理想的なのだと思います。
だけど、それって簡単なことではないですよね。
まず、
●好きが仕事になるのか
●仕事が好きになるのか
実際のところわかりません。

僕の場合、漆芸作家という職業が経済的に成り立つモデルがないところから始めたので、
純粋に好きを突き詰めていって、力づくで仕事にしました。
だから、好きが仕事になったと言えます。

好きなことしかしていないのだからそこを突き詰めるのは当たり前ですが、
職業選択の際に、大まかにでも自分の適性と照らし合わせて
「この仕事をしよう」と選んだのなら、一定のレベルを目指すのをお勧めします。

というのも、ある分野で一定の水準まで自分を高めることができた経験って消えないんです。
例えば、僕が漆芸家でなくなっても、他の分野で一定のレベルに到達する自信があります。
これは成功体験から生まれる自信かもしれないし、
一度通過したプロセスを他の分野で適用できるからかもしれません。
活動に器用になっていると思います。

とりあえず、プロのレベルに達している人は側から見てわかるし、
他の分野においても、経験が活かせると思います。
何より、社会の活力になると思います。

合わない仕事や、辛い職場ならさっさと辞めたほうがいいけど、
常に高いレベルの仕事をしようとする姿勢は大切。

信頼がお金に変わる時代に作家ができること

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現在は信頼が数値になりやすい時代になりました。
考えてみてください、ちょっと前まで家電を買う時
電気屋さんのオススメを聞いて買ってましたよね。
でも、今は電気屋さんのトークなんて信用しません。
それより消費者の声がダイレクトに聞けるアマゾンのレビューに価値があります。
なんせ立場が違います。売り手の売り文句より、同じ立場の声の方が信頼に値しますよね。
つまり、物を買う時の1つの指標に同じ立場の人の声は信頼で、
その数は信頼の数値化といえます。

◆sns上では、フォロワー数もある部分で信頼の量と言えます。
発信力と影響力という面では、テレビに変わるメディアになるのは時間の問題でしょう。(いや、すでに変わってるか)
ここまで、信頼の形が今までと変わって来たということを言いましたが
それがお金に変わるというのはどういうことでしょうか、
アマゾンの例では、レビューが伸びる商品は上位表示されるし
さらに売れる構造になっていますよね。
snsも同様に発信力がある人は、さらにその影響が拡散されて
ブロガーやyoutuberといった新しい職業が生まれ来ました。

◆では、美術はどうか
やはり、sns上での人気は実世界とつながっています。
世界的なアーティストにはフォロワーが多いです。
僕たちの世代より上の人の場合、実世界の人気がフォロワー数につながるという動きだったことが想像できるけど、
今後はsns上の人気から実世界への人気となるアーティストも増えてくるように思えます。

すでに音楽の世界では、youtubeやニコ生の配信からプロになることは当たり前だから
美術の世界でもそのような流れになってゆきます。
ただ、美術の場合、扱う物が一般的に高額なため、
音楽配信や漫画の配信のように多くの人から少しずつお金を集めるモデルが作りにくいです。
例えば、音楽のダウンロードとか、漫画のダウンロードは数百円ですから
人気がダイレクトにお金に変わりやすいですよね。好き→課金がしやすい。
美術の場合、一点ものだと、世界に一点しかないので
上記のビジネスモデルとは違って来ます。

◆つまり、認知されている量が多くても実際に
購買につながるのはほんの一握りの人に限られて来ます。
これは単純な数ではなく、信頼の大きさが必要になって来ます。
広く知られていることはその中に潜在的なお客様がいる可能性があるけど
重要なのは作品と作り手の持つ信頼感なのです。

僕は作家ですが、作品を買うのも好きなコレクターでもあります。
本当に尊敬できる作家さんの作品って、
ある部分で作風を超えてその人の作品があるだけで勇気がもらえるような感覚があります。
現代は信頼が数値化されやすい時代で
そこには認知だけではない力があります。


知ってるだけのあの人より
信頼できるあの人を大切にしたいというのは
時代やシステムがどんなに変わっても変わらない人間的な部分なのですね。

美術作品を贅沢品ではなく社会貢献のツールにするには

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日本における美術品の購入はお金持ちの贅沢として捉えられがちです。
これはZOZOの前澤さんがバスキアを123億円で購入した時もアンチに騒がれたことからもわかります。
コレクターがコレクションすることで叩かれる意味がわかりません。
が、実際に公私どちらとしてもお金が美術に使われることを否定的に感じる人がいます。
過去にも東京都が現代美術館が1995年の開館時に約6億円でロイ・リキテンスタインを購入した際に、問題になったようです。
今となってはリキテンスタインの代表作を6億円で買っていたなんて「よくやった!」と絶賛したいけど、
当時は「公費を漫画に使いやがって!」みたいな空気だったのでしょうか。


実際のところ美術は単なる贅沢なのでしょうか。
同時に美術に公共性があるとしたらいかなるものなのか。
コレクションされた作品が公共の利益になるとしたら2つのパターンがあるように思います。
まずは、寄贈による美術館収蔵
そして、財団や私設美術館による公開

明治工芸の一大コレクションを作った三年坂美術館の村田館長は後者と言えます。
ZOZOの前澤社長も近い将来美術館作るのでは?と思っています。
現在私立美術館として公開されているものも、財閥や大名がルーツになっているものが多いです。

一方で、日本美術の弱点は寄贈の文化がない、または一般的ではないことでしょう。
実は日本の美術館って予算が少なくて、新規のコレクション収蔵に苦しんでいます。
美術の振興に国が予算をつけて、たくさんの美術品をコレクションするというのは理想ですが、
なかなかそう簡単ではないんですね。
なので、ポイントになるのは、価値の高い寄贈によるコレクションの形だと思います。

最近では、アメリカのメトロポリタン美術館への竹工芸の大規模な展覧会と寄贈があり
工芸関係者としては胸熱でした。本当に。


そこで思うのが、コレクションへの寄贈文化の違いです。
どうやら、アーティストとギャラリストとコレクターと美術館が滑らかにつながっていて
美術の体系が出来上がっています。
つまり、アーティストが作ったものをギャラリストがコレクターに勧める
それが将来、どこの美術館に収めて、どのような社会的価値があるのか、
そこまでギャラリストがマネージメントしているようです。

日本の場合、それぞれが分断されているようなイメージで
作品は売れた瞬間から行方不明みたいな感じ、そして所有者が変わったとしても
誰も知られずに、押し入れに入ってしまうみたいなことが起こります。

アートの市場が弱いというのはつまり、流れがないということのようです。
アーティストとギャラリストとコレクターと美術館という流れができて、寄贈への税金優遇がさらに拡大されたら
きっと美術作品は贅沢品ではなく、より社会貢献のツールになると思うのです。

「ボヘミアンラプソディ」を見てきたよ

話題の「ボヘミアンラプソディ」
クイーンをモデルにした映画です。
僕が行ったのが、フレディマーキュリーの命日
11月24日

別に、その日を狙って行ったわけではなかったのですが
上映回は「熱狂応援上映」という特別メニューでした。
クイーン×熱狂上映て相性抜群では?

ちなみに、「熱狂応援上映」とは、館内で騒いでいい上映です。
海外の映画館だったら、割と笑い声とか、ツッコミが起こりますが、
日本の映画館って、完全なる静寂を観覧者に求められていますよね。
考えてみてください。
「We Will Rock You」の
ドン、ドン、チャ🎶
というイントロが館内で起こったら。。。


映画の感想としては
ロックと映画館の相性がとにかく良くて、上映序盤からモチベーションマックス⤴︎になります。
とにかく大音量でど迫力。
クイーンは何枚かアルバムを持って聞いていましたが、
代表曲くらいしか知りない「ファンじゃ無いけど知ってる程度の客」として見に行きました。


フレディは人種差別を受ける出っ歯キャラという設定
でも歌わせたらスゴイ。
クイーンのメンバーと出会い成功してゆく。

CDでもフレディの歌唱力はわかりますが、
映画で見ると(俳優さんだけど)あらためて、
フレディ・マーキュリーが歌唱力おばけだったことを実感しました。
それとともに、ブライアン・メイのギターがかなりかっこいい。
実は、ブライアン・メイのギターを集中して聞いてきませんでした。
理由は音楽のジャンルとして、クイーンの音楽が多彩すぎてギターバンドというイメージが無かったからかな。
映像とともにギターサウンドを聞くと、その独自性や超ロックしてる側面のクイーンを目の当たりにしました。


ストーリーは、成功、メンバー間の対立、恋愛、ドラッグ、復活といった、バンド系映画の王道ストーリーです。
でも、スピード感のある進行と音、館内の雰囲気のライブ感が心地よかったです。

「ボヘミアンラプソディ」は映画館がおすすめです。
最後の20世紀最大のチャリティ・イベント“ライブ・エイド”のステージを体感し
「熱血応援上映」でドン、ドン、チャ🎶やってきてください!

作品価格が上がって 得るものと失うもの

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作家にとって、作品を作り続けるために、
キャリアを形成し、作品価格を上げてゆくのは命題です。
お金の話を作家から聞くことに抵抗がある人は多いのかもしれないけど、
プロの作家として次の作品を作るためのリアリティ、お金は切り離せません。

僕の作品価格の値段推移を酒器で説明すると。
最初に作った酒器は35000円でした。たぶん25歳くらいの時。
その次のシリーズが65000円。29歳くらい。
次が125000円 30歳。
ちなみに一点ものの特別な酒器は1200000円になりました。
現在は、一点140000円から150000円です。

もちろん、価格を上げるのは新作を作りクオリティが上がっているからです。
最初期の作品と、現在のモデルでは造形、デザインそして作品としての完成度が全く違います。日々の鍛錬の賜物です。


さて、これまで価格が上がってきたことをお伝えしました。
今回のブログタイトルは「作品価格が上がって 得るものと、失うもの」
これを聞くと「いやいや、価格が上がって失うものなんてないでしょ」とツッコミを入れたくなりませんか。
少し、僕の気持ちを話します。

まず、僕の初期作は35000円だったわけです。
買ってくれたのは、知り合いや知り合いの知り合いです。
親戚のおじさんが買ってくれたりしました。
20代の僕はとても嬉しかったです。

それから、どんどんと作品のクオリティを上げてゆくと
最初に買ってくれていた人が、買いにくい価格になってゆきます。

そうです。僕は最初に応援してくれていた人に作品をコレクションしてもらうことができなくなるのです。
そして、価格が上がるということは、まだ見たことのないお客様の世界観に突入することになります。
僕の父はサラリーマンだったから、
身の回りに社長とかお医者さんみたいな収入の多い人のイメージが全くありませんでした。
でも、価格が上がれば、当然お客様はこのような立場の人になってきます。


価格を上げるというのは、そういうことです。
見たこともない世界観に自分と作品を突入させて、
そして、今まで応援してくれた人と別れることになります。

ちなみに、低価格の作品を残しながらハイエンドモデルの価格を上げてゆく作家もいます。
このやり方で行くと、ベンツが軽自動車も作るような構図になり、
ブランドとしての作家性が築きにくいので僕はしません。
つまり、僕の作品はいつも、現在が一番安い状況になります。次作る作品は確実に価格が上がります。


作品価格が上がって、入ってくるお金は増えましたが
そのお金は全て、人と材料に使っているので、僕の生活は全く変化していません。
というか、制作が趣味だし、他に欲しいものがほとんどないので
作っている毎日が幸せなんです。僕にとってお金は、その毎日のためにあります。

酒器の作品を年代順に並べます
最初のシリーズはまだ模様が大きかったです。

下の作品が65000円の作品。模様の精度も高くなってきましたね。

下の作品が125000円で個展で発表した作品です。
このシリーズは先日月刊美術で紹介してもらった「夕刻の海」限定2点で最後です。

ちなみに
金工根付作家の万征さんとコラボした一点もの作品は高価です。

カメラとレンズ沼問題

少し前から「作品撮りを研究する」と息巻いております。
その後、写真の師匠である中嶋さんからアドバイスもらったり、自分で調べたりしており、
とりあえず、カメラは買いました。

あまり迷いもなく
Sonyのa7R2

カメラのイメージ薄かったSONYだけど
最近とても評判がいい。
a7シリーズは3が最新ですが、画質以外は最新機能いらないので
一つ前のモデルを購入。

とりあえず、フィルムカメラ時代に使っていたニコンの50mm標準レンズをアダプタをつけて使ってみました。

スライドショーには JavaScript が必要です。

オートフォーカスに対応していないアダプタなので、マニュアルでパシャパシャ撮ってみたけど、
まあすごい。最近のデジカメはすごいとは聞いてたけど、ここまでとは。
4000万画素の力もあるけど、色味が以前のデジカメのように飛んでないという感じ。

色々なサイトを見ていると、描写力とか解像度などの文言が並ぶけど、
まさに高い描写力とクリアな解像度という言葉が当てはまります。

さて、次に出て来る問題。
それがレンズの問題。レンズ沼という物欲の沼が広がっていて
男心をくすぐりまくるのです。
で、結果的にその沼にはまりそうになり、自分の時間の大半をレンズリサーチに当ててしまうようになりました。
これではいかん。と思い中嶋さんに助言をもらうと
「24mmから70mmの標準ズームを選ぶといいよ」という神の一声
あとで書きますが、プロのブツ撮りに関する情報ってネット上にほとんどありません。
あったとしても、「簡易セットでオークション商品撮影をしよう!」みたいな感じで
作品を撮るというテンションではありませんでした。。。

ここで標準ズームという選択肢に絞られたんだけど、
そこにもまた広大な沼が広がっているのです。
結論から言うと、暗い階調が得意そうなSigmaというメーカーのレンズを買いました。
(ただし、SONY用でも僕のカメラとマウントの形式が違うため、専用のアダプタも購入)
sigmaはレンズメーカーでSONY純正ではない、いわゆるサードパーティーという括りで
一段下に見られているようですが、作例を見る限り、漆の黒を撮影するにはベストだと感じました。
まあ、撮って見ないとわかりませんので楽しみです。

そして、漆撮影でこだわりたいと思っているのが、
接写とアオリです。
まず、僕の仕事は最近細かい表現が増えて来ているので、そこを描写したいのです。
もう一つ、縦長の作品は普通のレンズで撮影すると、パースがついて、下すぼみで写ってしまいます。
それを最小にするためにアオリ撮影をします。蛇腹付きのレンズをイメージしてもらえればと思います。

こんな感じで接写撮影とアオリ撮影を行なってゆこうと思います。
撮影環境をもう少し整える必要があるので、セットで行う撮影はもう少し先になりそうです。


しかし、ブツ撮りについての情報がここまでウェブ上にないことに驚きました。
レンズもいわゆるブツ撮り用のものはありません
カメラ業界における、ブツ撮りの用途が限定されていることを痛感しました。
20代の頃撮影のお手伝いしてなかったら、もっともっと遠回りした挙句、撮影できなかったような気がします。

もうしばらく作品撮影をめぐる挑戦は続いてゆきます。

利便性の問題解決と美

利便性の問題解決に励んだ日本の方向性と美は真っ向から対立します。
このブログの読者の皆さんなら、気がついていると思いますが、
利便性を追求すると、そこから美がそぎ落とされてゆきます。

例えば、佐藤可士和さんのデザインしたコンビニ用コーヒーメーカーは
説明不足という理由から色々と説明シールが上から貼られて説明の塊みたいになった画像がたくさん見られます。
使いにくいというのはどうかと思いますが、
説明の先回りみたいな日本製品って思ったより周りにたくさんあります。
例えば、洗濯機をみてください。ドラム式だと特に、上面に説明や注意書きがたくさん。
「説明書かよ!」って突っ込みたくなるような。
一方で海外の家電ってあまり製品に説明が書かれていません。

確かに説明で埋め尽くされていれば、便利かもしれないけど、
そこに美しさはありません。
せっかく美しいフォルムの洗濯機を作っても、説明的なテキストにまみれてはそこに目がいってしまいます。

車についてもそれが言えるように思います。
車における利便性とは、自由な移動パッケージです。
自由には、内容量とか、快適な車内空間などが含まれますが、
それらの問題を解決しようとすると、自ずと形が固定されて来ます。
そこに日本車の強みがあるけど、ブランドが放つメッセージには利便性しかありません。
悪いことではないけど、美しさは遠のいてゆきます。


僕が作っているものには利便性の問題解決をできるだけ排除してゆきたいと思っています。
それは、現代における物と人あり方に少しだけ変化を与えたいという提案です。
つまり、僕たちは、身の回りの物は自分を中心にコントロールできる物として捉えていますが、
そうじゃなく、物に合わせる生き方も生活のどこかに必要だと思っているのです。
そしてそれこそが、美なのではないでしょうか。

偏った執着が魅力だったりする

優秀な人より、ある一定の物や事に執着している人が魅力的に映ります。
これはある意味当然で、
いわゆる答えのない問いに到達している状態っていうのは魅力なんです。

学校の授業と違って、専門分野に従事していると、
ある段階から問いに対しての答えがなくなってゆきます。
もっと言えば、問いを作り出すことが仕事になります。

僕の場合、美術に関する問いを続けていますが、
「どうやったら美しいものを作れるか」という問いから
「そもそも、なぜ人間には美が必要なのか」という、答えの出難い問題へ、
日々挑戦しています。
今のところの僕の答えは
美術とは、信念の具現化であるという仮説のもと、作品を制作しています。

ではなぜ偏った執着が魅力だと考えるようになったのか。
それは、ネット情報網が主権を握っている現代だからこそ顕著なのだと思います。
以前のように情報入手が新聞やテレビ等のメディア主体だと、多くの人が共通のソースから情報を得てきました。
しかし今は違います。それぞれに最適化された情報がインターネットを通して検索できるし、提供されているから
個人の頭の中にどれだけの情報が入っていようと、ネットワークにはかないません。
ほぼすべての知識はウェブ上に日々蓄えられています。つまり、優秀さとか博識の価値が転換しているのです。
誰かに聞くより、スマートフォンで検索した方が早いのです。

しかし、専門性を突き詰めてゆくと、
ネット上に存在しない問いに行き当たります。
そんな時、オリジナルな思考を持っていて、その解決に向かう知識というのは
人間に残された人間らしさに直結するように思います。
つまり、コンピューターに代替されない数少ない領域こそ
偏った執着でしょう。

一見社会に役に立たないような執着でも、
少なくとも、人間的な魅力になります。
今後、さらにインターネットの最適化が進むと
偏りの意味合いが変化してくるでしょう。
日本に10人しかいない偏った執着でも、舞台を世界にすれば、市場は数倍になります。

ウィキペディアに載ってないあなただけの執着はありますか。