カテゴリー別アーカイブ: 思う事

カメラとレンズ沼問題

少し前から「作品撮りを研究する」と息巻いております。
その後、写真の師匠である中嶋さんからアドバイスもらったり、自分で調べたりしており、
とりあえず、カメラは買いました。

あまり迷いもなく
Sonyのa7R2

カメラのイメージ薄かったSONYだけど
最近とても評判がいい。
a7シリーズは3が最新ですが、画質以外は最新機能いらないので
一つ前のモデルを購入。

とりあえず、フィルムカメラ時代に使っていたニコンの50mm標準レンズをアダプタをつけて使ってみました。

スライドショーには JavaScript が必要です。

オートフォーカスに対応していないアダプタなので、マニュアルでパシャパシャ撮ってみたけど、
まあすごい。最近のデジカメはすごいとは聞いてたけど、ここまでとは。
4000万画素の力もあるけど、色味が以前のデジカメのように飛んでないという感じ。

色々なサイトを見ていると、描写力とか解像度などの文言が並ぶけど、
まさに高い描写力とクリアな解像度という言葉が当てはまります。

さて、次に出て来る問題。
それがレンズの問題。レンズ沼という物欲の沼が広がっていて
男心をくすぐりまくるのです。
で、結果的にその沼にはまりそうになり、自分の時間の大半をレンズリサーチに当ててしまうようになりました。
これではいかん。と思い中嶋さんに助言をもらうと
「24mmから70mmの標準ズームを選ぶといいよ」という神の一声
あとで書きますが、プロのブツ撮りに関する情報ってネット上にほとんどありません。
あったとしても、「簡易セットでオークション商品撮影をしよう!」みたいな感じで
作品を撮るというテンションではありませんでした。。。

ここで標準ズームという選択肢に絞られたんだけど、
そこにもまた広大な沼が広がっているのです。
結論から言うと、暗い階調が得意そうなSigmaというメーカーのレンズを買いました。
(ただし、SONY用でも僕のカメラとマウントの形式が違うため、専用のアダプタも購入)
sigmaはレンズメーカーでSONY純正ではない、いわゆるサードパーティーという括りで
一段下に見られているようですが、作例を見る限り、漆の黒を撮影するにはベストだと感じました。
まあ、撮って見ないとわかりませんので楽しみです。

そして、漆撮影でこだわりたいと思っているのが、
接写とアオリです。
まず、僕の仕事は最近細かい表現が増えて来ているので、そこを描写したいのです。
もう一つ、縦長の作品は普通のレンズで撮影すると、パースがついて、下すぼみで写ってしまいます。
それを最小にするためにアオリ撮影をします。蛇腹付きのレンズをイメージしてもらえればと思います。

こんな感じで接写撮影とアオリ撮影を行なってゆこうと思います。
撮影環境をもう少し整える必要があるので、セットで行う撮影はもう少し先になりそうです。


しかし、ブツ撮りについての情報がここまでウェブ上にないことに驚きました。
レンズもいわゆるブツ撮り用のものはありません
カメラ業界における、ブツ撮りの用途が限定されていることを痛感しました。
20代の頃撮影のお手伝いしてなかったら、もっともっと遠回りした挙句、撮影できなかったような気がします。

もうしばらく作品撮影をめぐる挑戦は続いてゆきます。

利便性の問題解決と美

利便性の問題解決に励んだ日本の方向性と美は真っ向から対立します。
このブログの読者の皆さんなら、気がついていると思いますが、
利便性を追求すると、そこから美がそぎ落とされてゆきます。

例えば、佐藤可士和さんのデザインしたコンビニ用コーヒーメーカーは
説明不足という理由から色々と説明シールが上から貼られて説明の塊みたいになった画像がたくさん見られます。
使いにくいというのはどうかと思いますが、
説明の先回りみたいな日本製品って思ったより周りにたくさんあります。
例えば、洗濯機をみてください。ドラム式だと特に、上面に説明や注意書きがたくさん。
「説明書かよ!」って突っ込みたくなるような。
一方で海外の家電ってあまり製品に説明が書かれていません。

確かに説明で埋め尽くされていれば、便利かもしれないけど、
そこに美しさはありません。
せっかく美しいフォルムの洗濯機を作っても、説明的なテキストにまみれてはそこに目がいってしまいます。

車についてもそれが言えるように思います。
車における利便性とは、自由な移動パッケージです。
自由には、内容量とか、快適な車内空間などが含まれますが、
それらの問題を解決しようとすると、自ずと形が固定されて来ます。
そこに日本車の強みがあるけど、ブランドが放つメッセージには利便性しかありません。
悪いことではないけど、美しさは遠のいてゆきます。


僕が作っているものには利便性の問題解決をできるだけ排除してゆきたいと思っています。
それは、現代における物と人あり方に少しだけ変化を与えたいという提案です。
つまり、僕たちは、身の回りの物は自分を中心にコントロールできる物として捉えていますが、
そうじゃなく、物に合わせる生き方も生活のどこかに必要だと思っているのです。
そしてそれこそが、美なのではないでしょうか。

偏った執着が魅力だったりする

優秀な人より、ある一定の物や事に執着している人が魅力的に映ります。
これはある意味当然で、
いわゆる答えのない問いに到達している状態っていうのは魅力なんです。

学校の授業と違って、専門分野に従事していると、
ある段階から問いに対しての答えがなくなってゆきます。
もっと言えば、問いを作り出すことが仕事になります。

僕の場合、美術に関する問いを続けていますが、
「どうやったら美しいものを作れるか」という問いから
「そもそも、なぜ人間には美が必要なのか」という、答えの出難い問題へ、
日々挑戦しています。
今のところの僕の答えは
美術とは、信念の具現化であるという仮説のもと、作品を制作しています。

ではなぜ偏った執着が魅力だと考えるようになったのか。
それは、ネット情報網が主権を握っている現代だからこそ顕著なのだと思います。
以前のように情報入手が新聞やテレビ等のメディア主体だと、多くの人が共通のソースから情報を得てきました。
しかし今は違います。それぞれに最適化された情報がインターネットを通して検索できるし、提供されているから
個人の頭の中にどれだけの情報が入っていようと、ネットワークにはかないません。
ほぼすべての知識はウェブ上に日々蓄えられています。つまり、優秀さとか博識の価値が転換しているのです。
誰かに聞くより、スマートフォンで検索した方が早いのです。

しかし、専門性を突き詰めてゆくと、
ネット上に存在しない問いに行き当たります。
そんな時、オリジナルな思考を持っていて、その解決に向かう知識というのは
人間に残された人間らしさに直結するように思います。
つまり、コンピューターに代替されない数少ない領域こそ
偏った執着でしょう。

一見社会に役に立たないような執着でも、
少なくとも、人間的な魅力になります。
今後、さらにインターネットの最適化が進むと
偏りの意味合いが変化してくるでしょう。
日本に10人しかいない偏った執着でも、舞台を世界にすれば、市場は数倍になります。

ウィキペディアに載ってないあなただけの執着はありますか。

百貨店と美術

日本における美術発信の大きなウェイトを占めている百貨店。
特に工芸分野における、発信場所としては、規模、歴史の古さからも
工芸といえば百貨店というイメージを持っている人も多いと思います。

最近「百貨店の企画が多すぎるのではないか。」と思います。
現状として、各百貨店には、それぞれ美術画廊があり、展示スペースが少なくとも二箇所
多いところになると4とか5部屋ある百貨店もあります。
もちろん、百貨というだけあり、たくさんの物を並べるのは百貨店のあり方に沿うものですが、
時代の流れとともに変化する必要もあるように思います。

作家として企画が多すぎることの問題点を考えてみます。

◯展示が多いと期間が短くなる
展示が多いということは毎週展示替えとなります。
数カ所の場所を埋めるために、月に何度も展示替えを行うことになります。
通常、個展やグループ展などの展示は1週間となります。
その期間を長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれだけど、
土日を二度はさむことができるだけの期間が理想ではないでしょうか。

◯企画が薄まる
年間で膨大な数の展示を開催するために
それぞれの企画が薄まって見えることがあります。
各展示それぞれ同じだけの力を入れるのは難しいので、目玉企画とそうでないものの差が生まれてしまいます。

◯お客様に伝わりにくい
作家として一番懸念していることが、お客様に伝わりにくいことです。
例えば、案内にしても美術画廊のパンフレットが届くと、たくさんの情報が詰め込まれています。
限られた紙面なので、現状仕方ないけど、展示の密度を上げて作品情報を少しでも大きくしたらより見えやすくなるでしょう。


色々思うことはありますが、僕も百貨店からデビューさせてもらいました。
そして、これからも若手作家のデビューの場として百貨店があるなら、
たくさんの機会が用意されていることはいい事かもしれません。

たくさんの情報を提供する場所が、リアルからネットに移り変わる現在、
本当に良いものだけを厳選した場であるとか、人との繋がりがある心地よい場所としての
百貨店という未来を描いた時に、美を提供する場としても美術画廊には変化の余地があるように思います。

百貨店が美術を扱うというある種の文化。
人と物との関わりが急速に展開する中、作家と百貨店が提供できる美的体験をどこまで追求できるか。
2021年の個展では、できるだけその辺りも追求してゆきたいと思います。

古典と歴史を学ぶ単純な理由

僕の工房にはたくさんの図録や美術関係の書籍があります。
現代美術から古典的な美術書があって、工芸関係が多いけど、幅広く集めています。
古いものや、歴史から学ぶことは多くて、今でも工芸史には関心があります。

最新の美意識を作っているのになぜ古いものを勉強しなければならないのでしょうか。
少なくとも技法的な知識は必要としても、工芸史まで網羅する必要とは何か。
僕の答えは
その時の最新トレンドを体験したいという単純だものです。
ものを見て学ぶことは多いけど、その背景を知らなければ、なぜその時代に美術の潮流はその方向に流れていたのかわかりません。
潮流を学ぶ理由は、現代にどれだけ応用できるかの一点です。

例えば、美術史的に見ると
千利休という人が、ただの茶人ではないことがわかります。
利休が行ったことはお茶を介したコミュニティの創造です。
具体的に説明すると、お茶を教えると言う立場から多数の実力者を集めたサロンを作り
そこで新しい美意識の流布を行います。
自分のブランド印のついた関連商品を発表し販売します。
文化は幅広く広がり、現在でも茶道という体系において利休の影響力は色濃いのでそのブランド力たるや強力です。
つまり、道具や作法を超えたコミュニケーションの場であり続けるから時代が移っても色あせない本流があるのです。
日本の美術史上空前のブランドを作った利休も戦国の歴史の中で縦横無尽に活動したことがわかります。

利休をただの茶坊主として見るのではなく、稀代のブランドメーカーとし眺めると
途端に美術しが面白くなりませんか。

時代は下って昭和に入り利休のビジネスモデルを使った巨人がいます。
魯山人もおそらく利休のブランド手法を意識していたのではないかと思っています。
魯山人は陶芸家という印象が強いですが、書家、料理人、評論家といった色々な顔を持っています。
陶芸家としては実際に手を動かすのではなく、卓越したプロデューサーという存在で
膨大な作品を作り上げました。
魯山人が仕組んだコミュニティの媒体は食でした。
高級美食倶楽部を作り、財界にコミットし自らプロデュースした器の価値を高めて行きました。

このように、利休を茶人、魯山人を陶芸家として見るのではなく
時代といかにコミットしていったかという側面を捉えるためには、歴史的背景と
その後の影響力を考えて見る必要があります。
もちろんその時代の最先端だったから爆発的なブームを生んだんだけど、その前段階となる人と事、時代背景があったはずです。
そのあたりを学ぶために、古典と歴史は必要になります。

古いものはすでに答えが出たものではなく、これからのヒントにもなります。

営業すること

美術と営業、一見かけ離れた言葉に感じます。
いや、かけ離れていて欲しいと思いたい人が大半なのではないでしょうか。
「作家の仕事は作ることであって、それを売りに歩くなんて間違ってる」そう思いませんか。
実のところ、作家の仕事とはいい作品を作ることではありません。
いい作品を作るのは当たり前で、それをいかに知ってもらうか。というのが作家の仕事だとつくづく感じます。
そのために営業は必要なのか?

今回の記事は僕の美術と営業の考え方をまとめてゆこうと思います。
※ちなみに今回の営業とは画廊への売り込みについて書きました。※

◎美術における営業とは

営業という言葉、どこかで知らない人の家のドアを叩いて商品を売り込むイメージありませんか?
これは飛び込み営業という古〜い営業方法で、効率悪くて消耗も激しいので美術に向いていません。
美術における営業とは、人間関係を作ることです。
どのような業界でもそうなのですが、裾野の広い業界でもキーパーソンはそんなにいません。
つまり数人とか十数人の実力者によって業界が回っています。
この人たちと知り合いになれば、話が早く、それが自然と営業になってゆきます。

◎では、どう知り合えばいいのか

いくつかの方法があります。
まずは、発見してもらう方法。
簡単な話、見つけてもらって声をかけてもらえればいいのです。
方法は三つ
1、卒業作品展で見つけてもらう
2、公募展や個展で見つけてもらう
3、snsや他のメディア媒体で見つけてもらう

1の卒業作品展は主に芸大出身の場合効力を発揮すると思います。他の大学だとそもそも見てもらえるかわかりません。
芸大の卒展に限っては高い確率で美術関係者が集まるので、そこで目に止まることができたら営業成功ですね。
2の公募展や個展は公募展出品作を気に入ってもらう、個展で作品を気に入ってもらうということ。
3は現代特有なのですが、FecebookとかTwitterで見つけてもらうこともできます。僕もsnsでたくさんの作家さんと出会いました。

ただし、この見つけてもらう方法は、他人任せで自分ができることは限られています。
公募展とか卒業作品展などは多くの作品が同時に展示されるので、実際作品を見つけにくいのです。
例えるならば、同時展示されている状況というのは、路上ライブのようなものです。
どんなに音楽好きでも路上ライブから有能なミュージシャン見つけるのは難易度が高すぎます。
よほど目立っていてタイミングがぴったりでないと難しいのが、見つけてもらう営業法ですね。

◎足を運ぶこと

自分でできる営業法
そして再現性のある営業法
それは足を運ぶことです。
営業とは自分の商品を売り込むことだと思われていますが、
僕は逆に相手を知ることだと思っています。
だから自分の好きなギャラリーには何度も足を運んで
作家やギャラリストの話を聞きに行きます。
別に相手に影響される必要はありませんが、その人がどのような人かは重要です。
例えば企画画廊の個展となると、少なくとも10人前後の人が動きます。
百貨店の個展はさらに多くの人が動くことになります。
なので、お互いがしっかりと知り合っていなければ
「さあ個展をしましょう」とはなりません。

あとは小山登美夫さんの著書にも書かれていましたが
個展の機会は作家からの紹介が多いようです。
つまり、信用できる人の知り合いがということですね。
もりろん実力があるのが前提ですが、この言葉からも人間関係での成り立ちがはっきりします。

◎けっきょく

最初の話に戻りますが、美術における営業とは人間関係を作ることです。
それには時間がかかるし、傷つかなければならない時もあります。
いい作品を作るのは当たり前で、それをいかに知ってもらうかという時に
じゃあ自分はどれだけ相手のことを理解しようとしているのか。相手に何を提供できるのか。
つまりは、自分という人間と出会うことでどれだけの人の人生に少しの変化と幸せを作り出せるのか
それが美術に限らず営業の本質だと思うのです。

好きを作り出すこと

僕たちは色々な感情の中で生きています。
喜怒哀楽という言葉では言い表せない多様な気持ちの中で揺れ動き、
そして、その集合体が社会です。

作品を作る上で、
誰かに僕の作品を好きになってもらうためには何をすれば良いのか。
また、好きな女の子に振り向いてもらうためにはどのような人間になれば良いのか。
結構切実だったりしますよね?

結果からいうと、「好き」を作り出すことはできないとわかりました。
美意識とか、嗜好などプラスの感情や
恐怖や嫌悪などのマイナスの感情の多くも、僕らは教育や経験に基づいて選択、あるいは生まれる感情なのだと気がついたのです。

例えば、
パクチー、セロリなどの強い匂いの香草、普通に考えたら
料理の味を総取りするくらい強い個性です。
それを好きだと思えるのは教育のためだと思うのです。
僕は好き嫌いがないのですが、それは母親が小さいころからたくさんの食材を使って
それを食べることに関して、褒めてくれていたからだと思います。
つまり、
好き嫌いが無い=良いこと
好き嫌いが多い=悪いこと

また、マイナスの感情も
何かのきっかけによって生まれています。
例えば、ゴキブリ
よく見たら、カブトムシの仲間みたいに綺麗にも見えるのでは無いでしょうか?(それは無いかw)
いや、むしろ黒く光っていて昆虫の黒ダイヤみたいな形容をして見ても良い。
ただ、僕たちは幼いころからゴキブリは悪であるという教育を受けています。
ゴキブリを効率的に殺害するための新兵器のcmを何度も目にしてきているし、
出現したゴキブリに対する悲鳴も何度も聞いてきました。
そして、僕たちはゴキブリを嫌いになったのだと思うのです。

結局のところ
「好き」とか「嫌い」という感情を
誰かに持ってもらうのは難しいのです。
いや、長い教育期間を通して「蒔絵は最高だよね」とか
「蒔絵の良さがわかる君は最高にクールだ!」と言い続けることができるなら可能かもしれませんが、
それは現実的ではありません。

ただし、そこで諦めていると何も変化が起きません。
誰かの感情に何かを届けることができるとすれば、
それは自分がその人を好きになることしかないんですよね。
つまり思いやり
それでも、この思いというのは一方通行になることの方が多い。
僕がどんなに「蒔絵って最高なんです」と話しても
多くの人は、過ぎ去ってゆきます。
最近でいうと、僕は海外への発信機会を求めているので、
たくさんの海外ギャラリストへ情報発信をしています。
中には個展に足を運んでくれたり、工房を見学しにきてくれる人もいます。
だけど、「okうちで個展しようぜ!」とは、ならないのです。
時間の割に結果が伴っていないのです。
でも、近いうちに僕は海外での発表機会を拡大できると信じています。
それは、僕が「蒔絵を海外へ紹介したい」と思い続けて行動しているからです。
何か行動を起こしている限り、可能性はゼロでは無くなります。

「好き」は作れないけど、
好きになってくれる人に出会う行動を続けることはできます。
そんな積み重ねが今の僕と、僕の作品です。
思いやりを忘れなければ、いつか夢が叶うんです。

僕らは世界をどう見つめて行くべきか

美術だけでは無く、色々な分野に言える事ですが、
何かを開発するときには広い視野なんか役に立ちません。

例えば、アンケートを取りまくって鳴り物入りでデビューした製品って大方失敗するのは、主観が弱いからです。
そんな無責任な誰かの意見で薄まった何かを作るよりは、スティーブ・ジョブズさながら、卓越した主観で押しきった商品の方が魅力的になるわです。

だけど、主観というのは往々にして、独りよがりにもなりやすくて、多くのアーティストは主観を社会に同期させることができなかったり、社会との同期ばかり考えて、アンケートから作られたようなものを作ってしまいます。

実のところ、人間は正確な客観を持つことができないと思っていて、客観だと思っているのは、他人の感情を予測している主観とか、思いやりだったりします。

結局一周まわって、卓越した主観が重要になってきますが、それを伝えるのはやはり思いやりなんですよね。
僕の考える美術の有り様とは
「信念の具現化」なので、誰かの信念に同期される必要があります。

「先進美術館」という国家プロジェクト?

国が美術振興をすると内容がもっさりするのは恒例ですが、
今回の「先進美術館」というのも、多くの問題をはらんでいそうです。
まずは美術関係者の声を集めてみましょう。

多くのアーティストが怒っています。
この「先進美術館」という施策の内容、間違っていたら指摘お願いしたいのですが、
ざっくりいうと、
○国内のアート需要を掘り起こすために既存の美術館を「先進美術館」指定するよ
○「先進美術館」には補助金を出すから展覧会頑張ってね!
○展覧会で人気を集めて作品を市場に放出しよう!(!?)
○結果、アートシーンが円滑に回って、美術館も儲かるね(!?)
という感じでしょうか。

さて、この発想。やっぱりもっさりとしています。
問題があるとすれば、美術市場を構成している人に対してフォローがないところ。
つまり、ハコ(例えば美術館だったり、博物館)にお金出せば市場は活性化すると思っている。
残念ながら、美術市場は人の感情で動いています。
例え何らかの形で美術館から作品が市場に流れて、国内で流通したとして、
それが国際的な市場で戦えるかというと、全く別の話です。
日本のアートシーンは村上隆さんや奈良美智さんの活躍によって
世界市場への挑戦のステージにあります。
工芸もまさにそのステージに立っており、それを牽引するのは
国でも美術館でもなく、人の才能と努力と情熱なんですよね。

僕は何かを奨励する制度を設けるなら
イケてる作家に投資をすることが一番良いと思っていて、
イケてる作家は雇用を作り出すことができ、作品のクオリティが上がり
国内外への挑戦を加速させて行きます。
結果的に市場を回す力を拡張できるスピードが上がります。

ただ、イケてる作家というの補助がなくても
自分の力で市場を作り上げる力があります。
そのスピードを加速させることって、補助と関連性が見えにくいので国の施策になりにくいのは確かですね。


しかし、今回の施策には美術館への寄贈作品の税制面の優遇が含まれているようです。
個人蔵の貴重な美術品は、今までただの贅沢品でしかありませんでしたが、
優遇処置が取られて、個人の資産から国の資産という考えかたにシフトしてゆくならば、それは必要なことです。

間違っても
「しばらく美術館に所蔵しておいたし、そろそろ市場に放出しましょうか」
みたいなことには、、ならないよね?

「イタいやつ」くらいがちょうどいい?

漆芸作家の活動の他に、ブログを書いたり、snsやったり
動画や図録を作ったり色々やってて、たまに思うことがあります。
「自分、イタいやつと思われてないかな?」これ実は切実で、たまに悩んだりするんです。
あらゆる活動が、漆芸制作に集約されていて、最終的に作品で勝負するという本質は変わらないので、
必要な活動だと思っているけど、
やっぱり「イタいやつ」というイメージがついて作品がクリアに見てもらえなくなったらどうしよう?
と思うこともあるんです。

今もなんだけど、以前はもっとイタいやつだったと思うし、
考えると、恥ずかしくて
穴があったら入りたい思いをよくしています。

でも、でもですよ、
このイタさって、たくさん行動しているという証でもあると思うのです。
要するに、恥ってのは誰かに会って初めて生まれてくるものだし、
目につく、耳に入るイタさっていうのも
行動によって生まれてくるものなんですよね。

それに、過去の偉人を冷静に見つめたら
やっぱり彼らもかなりイタい部分があったりします。
漆の巨匠で一例を挙げると
松田権六の自伝を読んでると、
どうしても岡倉天心に会いたくなった松田権六は
美術界の大御所(例えば横山大観とか)をたづねて「岡倉天心ってどんな人???」って聞き回っています。
結局、岡倉天心は病床で会うことかなわず、残念であったという話なのですが、
このエピソード普通じゃないですよ、なんだこの情熱は。

松田権六の武勇伝はこちらの本にたっぷり書かれていますので良かったらこちらをどうぞ。

恐れを知らない情熱を、冷静に見つめたらちょっとイタい感じもします。
今でこそ漆の神様みたいな人だけど、無名時代の漆青年に追っかけ回されていたのでは、病人もゆっくり休めませんよね。

最終的に松田権六のイタいほどの情熱は、漆芸の個人作家時代を開花させて
その後の影響を考えると、功績はあまりにも大きいのです。
若い時のイタさこそ、その後の財産にもなりうるのではないでしょうか。

「イタいやつ」くらいがちょうどいい