カテゴリー別アーカイブ: 漆に生きる日々 京都編

エネルギア美術賞受賞しました!

中国地方在住または出身の若手芸術家を顕彰する
エネルギア文化・スポーツ財団の「エネルギア美術賞」を受賞しました。
この賞は、作品単位ではなく活動全体を顕彰する賞で、
今までの漆芸に関わる活動全体を評価していただくことができたこと、とても嬉しく思います。

これまで地元鳥取での活動となると
年に一度グループ展に出品させていただくくらいでした。
なので、中国地方の賞をいただけるというのは、難しいと思っていました。
ただ、鳥取での活動として、継続して漆の植栽を行なってきたこと、
現在200本を超える植林ができたこと、
そして昨年から自作は全て鳥取で自ら植栽した漆を使用して制作を開始できたことが評価を得られたように思い、とても光栄に思いました。

僕にとっては、父親とともに育ててきた漆の道への奨励のようで
作品単位での賞とはまた違った喜びがありました。

今後は、やはり地元密着というよりは、
全国や世界にしっかり蒔絵の美しさを伝えてゆく活動が
地元にとっても恩返しになると思うので、それをしっかり加速させてゆきたいと思っております。

今日は授賞式で広島まで行ってきました。
帰りは鳥取に寄って父親とお祝いのお酒を飲もうと思います。

エネルギア文化財団 顕彰者ページ
http://www.gr.energia.co.jp/bunspo/award/cat2.html

コラボ作品

最近、本当に尊敬できる他分野の作家さんに会うことが多くて
色々話をしていると、「一緒に何か作りませんか?」という流れになることがあります。
自分も30代の作家になってくると、同世代の作家がとても魅力的で、その人と新しい作品を作りたくて仕方なくなるのです。

実は以前はコラボ作品って嫌いだったし、自分は絶対にしないと思っていました。
それは、周りとのものづくりのテンションの違いというか、
ちょっと突っぱねた僕の考え方もあったのだろうけど、最近知り合う同世代の作家さんは
確実に荒波をくぐり抜けて活躍している人ばかりなので、心から尊敬できるんです。
作品がすごいのはもちろん、人としての魅力もあって、一緒に仕事がしたくなります。

直近だと、写真家の星野裕也さんに無理言って作った図録
根付作家の万征さんと一緒に作ってきた作品
陶芸家の素晴らしい作家さんともコラボ作品作る予定
あと、万華鏡作家さんとのコラボ。

いやあ、楽しみです。
作品数少ないからとにかく、スピード感なくて相手には迷惑かけてしまうけど、
自分が作品を作るのはお金のためではなく、純粋に美しいものを作りたいんだという原点に立ち返られるんですよ。
それは、やっぱり彼らが、同じく純粋で作品がそう語りかけてくれるから、僕も頑張ってすごいものを作ろうと思えるのです。

さて、根付作家の万征さんとのコラボレーション作品ですが、
直近で数点発表の場を得ることができました。
京都・東京で活動しているので、制作状況はメールが多いのですが、
実際に作品のやりとりをしていると、毎回驚かされます。
「おお!こうきたか!」
今回も面白いものができました。近いうちに告知いたしますので、どうぞ宜しくお願いします!!

今年はコラボ作品も頑張ります!!!!

作品価格の決め方

作品の価格って誰がどう決めているのか。
多くの人が疑問に思うこのテーマ。
そして作家にとって、むずかしい作品価格の決め方。

まず、工芸分野の場合、作品価格は作家本人が決めている場合が多いです。
絵画系の作家はギャラリーが決めるというのも聞いたことがありますが、今もそのルールがあるのかどうかは不明です。
工芸分野の場合、専属ギャラリーという概念が薄いので、
その辺りは自由で、そして、価格を考えなければならないという大きな課題がのしかかります。

では、価格は具体的にどうやって決めているのでしょうか。
多くの場合、原価計算をして、さらに発表場所との手取りを計算して。。。など、かかった経費に利益を足した金額になっているかと思います。

僕の場合、そのような計算方法を取っていません。
計算方法は、市場性を重視しようと思っています。
つまり、原価や利益を度外視してでも「この作品は今、いくらで取引されるべきか」という基準で、
もっとわかりやすくいうと、「その価格で売れた実績があるか」というのが大切だと考えています。
この考え方で行くと、
売れなければ、作品価格が横ばいになる
労力に対して利益が見込めない作品が出てくる
という二つの課題が現れます。

現実的に、売れても赤字という作品もあるし、
時間計算したら現状の僕の作品の市場価格にしては高すぎるため、売れない作品なども出てきます。
特に、酒器などの小さな作品は売れても赤字の作品になってきました。
あとは、棗などの市場性をしっかり固定している作品も時間あたりにすると、高価になりすぎるため
非売で発表することが多くなってきています。

僕が市場性を重視するのは
作品の価値とは、作り手の都合ではなく、みてくれる人の中にあると思っているからです。
「自分がどれだけ長時間働いた」とか
「高価な素材を用いた」などは、全て作り手の都合です。

現段階で赤字でも、市場性を確立できれば
伸び代は多いし、蒔絵というブランドで世界に挑戦するならば、経費より市場を見つめる考え方が長期的にプラスだと思うのです。

新しいテーマ

ここ数年は幾何学の細密表現を主とした表現をしていました。
「光を描きたい」という思いが、ダイレクトに表せて、そして、何より楽しく仕事をしてきました。
今までの表現は、これからも続けるし、発展させますが、少し王道の蒔絵に向かう気持ちも生まれてきました。

蒔絵の王道といえば、「研ぎ出し蒔絵・平蒔絵・高蒔絵で花鳥を描く」くらいのど真ん中の仕事をしたくなったのです。
ただし、現代作家なので、現代的な表現を圧倒的な技術で挑むというのが前提で、
とにかく中途半端な現代性と技術に陥らないように。

では具体的に何をしようとしているかというと、百花図を蒔絵でやってみようと思っています。
日本美術において四季の花を描くというのは王道中の王道ですが、蒔絵で100の花を描くことをテーマに挑戦しようと思います。
で、このテーマ王道だけに、結果、古典よりになりやすいんです。

さてこの挑戦うまくいくのでしょうか。
課題は二つあって、まず

取材量が膨大

花を扱うためには、スケッチがとにかく重要です。
花って、季節のものだから、咲いてる時に頑張ってスケッチしてゆかなければなりません。
昔からためていたスケッチも含めて、百花に挑むには少なくとも500くらいはスケッチの資料が必要になってきそうです。
長い戦いになりそうです。

複合的な技術の難しさ

先にも述べたように、花を蒔絵で描くというのは、王道中の王道で
やり尽くされた感というのがあります。
その中でどうやって現代性を出してゆくの?
そして、浅井康宏の作品らしさを出してゆくのか。
これはもう、やってみないとわからないことですが、
その先に何か重要な発見と
一皮向けた感じの自分がいる気がするんです。

二年後、または三年後にきっと現代の百花図をスタートさせていると思います。
ずーと休みがちだったスケッチの日々が始まりました。

これからの弟子制度を考える

技術の習得には時間がかかるわけですが、
人生において最も大切な時間という資源を若いうちにどのように、どのような形で振り分けるか、というのはとても重要です。
例えば「技術だけあればなんとかなる」と考えた場合、
伝統工芸の技術より、プログラミングの技術を習得した方が、収入を考えた時に有利なわけです。
ただ、お金ではなく、分野に対する愛情が深い場合は割り切る必要はないと思っていて、それが差別化に繋がり、
最終的に強みになります。そして、これからそのような人間らしい強みが仕事において必要になってきます。

でも、弟子体制が一般的にみてブラックな状態っていうのは、本当に長期的な活動が難しいので
師匠選び、環境選びは冷静になる必要があります。
ブラックな現場というのは総じて、人間関係もブラックなので、
さっさと見切りをつける必要があります。

僕が夢見る弟子制度っていうのは、弟子には最低限の社会保障をすべきだと思います。
逆に社会保障をつけることができないというのは、組織として際どい状況であるということなので、
やはり長期的な成長は難しいのです。

伝統工芸は夢のある世界なので、夢を見るだけの地盤を僕は作りたいんですよね。
そのために、一流の環境を作りたいと思います。
そこに一流の人と物が集まるのは当然なので。

僕が表現したいもの

「この作品で何が表現したかったのですか?」
たまに聞かれることですが、あらためて聞かれると、ちょっと困ることがあります。
性格的に、なんか気取って話すのも恥ずかしいような気もして。

でも、作品それぞれ表現したいことはあるし、
生き方や、今までの作品やこれから作られる作品には一貫したテーマみたいなものはあります。
ただ、作品単位でない一貫した部分って言葉にしにくいものがありました。
難しかったんです、一言にまとめるのが。

最近やっと見つけた言葉がありました。
で、それがすごく腑に落ちたのです。
その言葉は
美術とは、制作とは
信念の具現化なんです。

作品を作ることやコレクションすることについて
どうしても腑に落ちない部分がありました。
「そもそも、なぜ人は美しいものを作らなければならないの?」
「なぜ、人は美しいものをコレクションするのか?」
そして「なぜ、美術品は高額になるのか?」

僕は作家として、そしてコレクターとしてこれらの腑に落ちない感情と対面し続けてきたわけですが、
その答えは、僕の信念を具現化するためだったのです。

人には必ず、信念があります。
それは世界を動かすほどの壮大なものもあれば、食べ物の好き嫌いみたいにどこまでも個人的なものもあります。
だけど、その信念には形がなくて、それを人生を通して体現したい、そういう生き物が僕たち人間なのかなと。
つまり、どうしても具現化する形が必要だったんです。

人によっては、それが音楽であったり、
食事を作ることであったり、
そして子育てだったり。
僕の場合は漆で作品を作ることで信念を具現化させています。

さらに、自分以外の信念を自分の人生に取り入れることもできます。
芸術を必要とする感情とは、自分の信念と他人の信念をリンクさせたり、
吸収することなのではないかと思うのです。

人間が物を欲しがる時には
その物の先にある、自分の感情、つまり事を必要とします。
生きてゆく上で、信念を形作る何かがあるとするならば、僕たちはそれをどうしても手にする必要がある。
それが、美術の役割なのではないかと思い至ったのです。

ちょっと、哲学っぽいけど、
単純に、美しいものを見て「明日も生きていよう」と思えるし。
実際に作品を作る事で、僕は生きている実感をもらっています。
僕の信念は誰かに届くし、僕は誰かの信念の具現化を必要としているんです。

技術について僕が考えること

少し前の話で、あまり公表はしてないのですが、日本画を学んでいた時期がありました。
その時の成績といったら、まあひどいもので、とにかく評価が低かったのです。

僕の漆と日本画をやってるスタンスも良くなかったし、
少しばかり美術業界わかったような、生意気な学生だったのも原因だったでしょう。
ただ、僕の考える美術と先生たちの考える美術には隔たりがあって、
そこはもう平行線を辿るしかなかったように思います。

ここ数年で、工芸を含めた技術への一般認識は激変していて
今はわかってもらいやすいことでも、少し前までは伝統工芸や技巧に対する風当たりというのは、厳しいものがありました。

(ちなみに僕は超絶技巧という枠組みに入れられることは少なくて
「伝統工芸系」と括られることが多いです。(まあ、そんなことはどうでもいいんだけどね))

同じ境遇の人たち

最近、偶然にも同じ気持ちを持っている女性作家に会いました。それも二人。
二人とも今は超メジャーな作家で、過去に大学の日本画教育に疑問を持っていた人でした。
で、ここからが重要なのですが、、、
技術を否定された経験によって、自分の信念を強固にして
技巧的なもしくは王道的な表現で現在大成しています。

つまり、苦しい体験や時間が結果的に表現を強固なものにしたようなのです。
僕の場合もやはり、あの違和感や苦しさって、今となっては自分を強化できたと思っています。
当時は「絶対、この人たちは間違ってる!見返してやる!!!!」と思ってたし、、、あ、今も思ってる。
だけど、ある意味で感謝もしていたりします。反面教師として。

結局僕には自己表現を考えた時に技術を必要だと思ったし、
それが本心から美しいと思ったのです。
あと、自分と違う美意識を真っ向から否定するのは、全く意味がないこと。
その時代、美術教育の難しさを考える良い経験でした。

美術史がどんな答えを出すかわからないけど、
僕は蒔絵表現における技術の領域に美を感じていることは確かなんです。

漆塗りゃ価値上がる!というのは間違い

たまに打診される「〇〇に漆塗ったらプレミアついて人気になるんじゃないですか?」
僕はこういうの100パーセント断るようにしていて、
理由は、お互いの価値を落としてしまうからです。

何故こういう企画が上がって、そして失敗してしまうかというと
高級路線にないものを、無理に高級にしようとするからなんです。
例えば、高級な軽自動車って絶対売れませんよね。
同じ自動車でも超高級な車っていうのもあります。
自由な高速移動パッケージとしての車を考えた時に、
軽自動車は100万円なのに1億円を超えるスーパーカーが存在しているのはどうにもおかしな話です。
ただ、前者は移動パッケージとしての用途ですが、
後者の場合、まったく違うコンセプトで作られていて、移動パッケージではない部分に価値があるのです。

さて、コンセプトという目線で漆を眺めてみると何が見えてくるでしょう。
まず、食器としての漆。
建築や神具などの建造物に用いられる漆。
そしてアートとしての漆。
大きく分けても、漆の用途っていくつかあります。
そして、その中にもまったく違ったコンセプトがあります。
例えば、同じ食器でも100円ショップで売られている漆器と書かれたものと
高級料亭で使われる漆器はまったく違うものです。
同じ食の器でも一方は什器としての用途としての価値ですが、
一方は場を演出するに価値があります。

話を戻すと、失敗するコラボレーションとは
多くの場合、物と物の足し算で価値を産もうとしています。
つまり軽自動車に漆塗るみたいな、用途と用途を合わせて価値を産もうという試みです。
用途を満たすために存在するものに必要以上な付加価値を加えると、高くて売れないものになってしまいます。

一方で高級なものというのは必ず心の動きがセットになっています。
その物を手に入れた後の感情が大切なんです。
例えば、時計に漆みたいな企画がありますが、
時計というのは典型的なに対する価値観なので
プレミアモデルとして企画されて、大きな失敗をしていない印象です。

ただ、成功事例を紐解いても
実際に新しい企画を立ち上げて成功させるのは、すっごく難しいんです。

ゴールはどこですか?

旅行へ行くときは必ず行き先を決めますよね。
まあ、ふらっとどこかへ行くというのもあると思うけど、
海外とか、しっかりプランを作って行動します。

でも、人生においてプランやゴールを決めている人って
案外少ないように思います。
人生には不確定要素が多すぎて、行き先を決めにくい部分もあるけど、
僕には行き先の無い人生の方がよっぽど恐ろしく見えます。
どんな職業だって、将来的にどうなりたいか考えて就くべきだし、
時代を考えながら生きていたら、今から目指さない方がいい職業はたくさんあります。
例えば、人工知能に入れ替わってゆく業種かどうかはしっかり見極める必要があります。

美術家に多い落とし穴は
一点の名作を作ろうとすること。
自分の仕事は作ることと決めてしまうこと。(作家=制作オンリー)
上記の二点は、多分間違いです。
成功した作家とか、学校の先生は「純粋であれ」と文書や講義で言うかもしれないけど、
それは本質を隠しています。
すごく綺麗事を言いたくなるのもわかるけど、本当はその先のゴールを見つめていないと勝てないようになっています。

僕が考える美術家(アーティスト)とは、ズバリ表現者です。(そのまま笑)
で、表現の領域は作品だけじゃなくて、考え方とか、生き方もしっかり表現されています。
美術史上、成功しているアーティストを思い浮かべてください。
よく考えると、しっかり顔まで思い浮かびませんか。
それは作品以上に存在感も同時に露出されているからだと思うのです。
周りの人が押し上げていると言う考え方もできますが、
ピカソとか、ダリって明らかにメディアを意識して生きていただろうし、
美術史はしっかり世の中との接点を正しく作れた人々の体系です。
それに変じゃないですか、何故そこまで執拗に自画像を描いたのでしょう。自意識強すぎる巨人の群れのような美術史が見えてきませんか?

時代によって考え方は変わってきます
メディアに出まくってる、芸能人化しているアーティストとかあまり好きじゃ無いけど
「表現領域を作品という枠に収めてしまわない」というのは、美術史の不変のルールでしょう。

作品がとにかくすごくて、後世の人々に詮索されるようなアーティストもいますが、
僕はそこまでの才能はないし、100%努力派でしかないので、おとなしく淡々と目指すゴールへ向かって毎日仕事部屋に入ります。

ゴールにたどり着くことができるかどうかはわかりませんが、
ゴールを設定していないと絶対にたどり着けないのもゴールですからね。
人生をかけて、背伸びして届くかどうかわからない目標の一つを決めちゃうのって、面白そうでしょ。

工芸作家2.0時代

これから本当に工芸が面白くなって行くと思います。
だって、著名人がこぞって工芸に関心を持ってくれているんですよ。
例えば、現代美術の村上隆さんや
スポーツ界では中田英寿さん。
ブロガーのイケダハヤトさんとか。

長年工芸に携わっていると
「ん?何が起こり始めたの?」
という感覚と同時に
「やっと気づいてくれましたか」という思いもあります。
というのも、ここ7年くらいで工芸を取り巻く環境というのが急速に変わってきてて
少しだけ追い風が吹いています。
これは別に政府や大きな団体の後押しがあるということではなくて、
イケてる人が、イケてる工芸に注目してくれはじめたということ。

で、ここにこれからの工芸を考える上で重要な伏線があると思っていて
まず、今までの権威の中から何か新しいものが生まれるってことは、きっともう無い。
あとは、旧来の工芸のイメージを良い意味で持っていない作家が生まれはじめている。

「公募展の時代は終わった」と何十年も言われていたそうですが、
やっぱり引きずり続けていたんですよ。権威の構造を。
でも、それではどうも行き詰まりだと気がついていたのだけど、
今まで続けてきてしまっていた。
バブルを知らない世代の作家はある意味で
憧れるものは素材と作品だけしかなかったんですよ。

「売れてる作家さんかっこいい」みたいな感覚がないから、
純粋であれたし、
経済的なリスクを負ってでも勝負をしたいと思う、
気骨のある作家しか挑戦しようのない土壌が自然と作り上げられていたのでしょう。

結果的に僕たちの年代の作家には、いい意味で前提がないから
より自由だし、程よくふるいにもかけられているから、
スピード感もあるんだと思います。

これからの工芸は権威によらない
面白い状況になってゆくと思います。
近いうちに、工芸は日本を代表する芸術表現として世界に認めらるでしょう。
その時に「蒔絵」も日本代表のイケてる工芸分野だと認識してもらえるように
日夜努力をしているわけです。

工芸作家という職業の意味合いはここ三年くらいで急激に変わります。
工芸作家2.0はもう始まってますよ。