信仰とスポーツ
リオオリンピックも今日が最終日となり、閉会式を迎えるようですね。
今回のオリンピックもいろいろなドラマがあって、たくさんの感動をもらいました。
地球の反対側でたくさんの日本人が日本の代表として戦ってくれて、選手の皆さんをすごく誇りに思います。
メダルの数もとても多く、毎朝入ってくるスポーツニュースがとても楽しみでした。
うちにはテレビが無いのですが、外出先等で少しだけ競技を見る機会がありました。
そこで少し思ったこと。
先日行なわれた、女子マラソン。
先頭集団のエチオピア代表の有力選手が、途中で足の不調でリタイアしました。
倒れ込む直前に、胸元で十字をきりました。
キリスト教によく見られる、祈りの動きです。
海外の選手がメダルを獲得した際に皆行なっており、なじみがあります。
しかし、このエチオピアの選手はなぜ崩れ落ちる刹那に十字をきったのでしょうか。
僕はこの行為が神へ感謝を示す行為だと思っていたのです。
4年間必死に努力してきて、この日のためにたくさんの事を犠牲にして練習をしてきたと思うんです。
国の期待を一身に背負って、走っている足が動かなくなったときの気持ちは、僕には想像もつきません。
彼女は何を思って十字をきったのか。
また、今回印象に残ったシーンとして
レスリング女子の吉田沙保里選手の銀メダルがあります。
吉田選手は彼女の階級では無敵で、今大会でオリンピック4連覇が期待されていました。
実績も十分で、金メダルが当たり前の中と言われる中での敗退。
もちろん世界2位というのはすごい事です。
日本中が吉田選手の活躍に感動をもらいました。
エチオピアの選手と吉田沙保里選手
僕が印象深かったのは、彼女たちが何を背負って戦っていたかという事です。
エチオピアの選手が崩れ落ちる直前にきった十字の意味は感謝だったのではないかと思うんです。
結果が出せないとわかった瞬間でも、彼女は神とともにあり、今ある全ての事を受け入れたのではないでしょうか。
一方、吉田選手は日本の期待を一身に背負い敗退し、自分を責めて何度も「ごめんなさい」という言葉が出てきました。
この二人の選手の結果に対する思いの違いは、信仰の違いだったのではないでしょうか。
キリスト教という世界観と
日本という国を背負って戦う責任感
どのような思いがあったとしても、誰かや何かのために懸命に生きるというのは本当に美しいと思いました。
同時に、人間が自分能力以上の何かを発揮する時には、かならず、自分以外の力が必要なのだと感じる光景でした。