鬱と芸術

実は22歳から27歳くらいまで鬱病で苦しんでいました。
よく「こんなに明るいのに鬱病だったの?」と言われます。
これは不登校について「こんなに普通なのに不登校だったの?」と同じようなイメージなのでしょう。
鬱病や不登校ってネガティブなイメージなので、本人もネガティブ人間である方が想像しやすいのかもしれません。
僕はネガティブな部分が他の人に少し見にくいのかもしれません。

でも、人間って色んな側面があると思うので
明るい側面がある一方で暗い部分もあります。

鬱病を乗り越えてみても、実は何の教訓もありません。
「鬱病にはもうならないでいよう」くらいなものです。


鬱病と芸術には切っても切れない関係があると思われる事もあります。
壮絶な生き方をしていた芸術家もいて、彼らのインパクトは強いですからね。
芸術家や文士に鬱病で自ら命を絶つという印象があります。
では、鬱と芸術的能力に関連性があるのでしょうか。
僕は全くないと思っています。
美術史には健康的な芸術家の方がたくさんいますからね。

性格的な繊細さと芸術的な繊細さは関連性が無いとも思っています。
とくに、芸術を志す場合に自分の心の弱さを、芸術への適性と考えがちになりますが
それは違います。
はっきり言ってしまえば、ものを作る時に心の繊細さは無い方が良いとさえ思います。
理由は、繊細さから来る制作のむらは活動期間を短くしてしまう可能性があるからです。
今までも書いてきたように、美術は長期戦で多作が有利なので
できるだけ、淡々とより良い作品を作り続ける生き方を選ばなければなりません。


意外に思われるかもしれませんが、狂気に満ちたイメージの芸術家はかなりの多作です。
もしかしたら、芸術活動のイメージ作りのためにあえて演じていたのではないかとさえ思えます。
考えてみて下さい。
もしゴッホが本当に狂人だったとしたら、あれだけの数の作品群を短期間で残せたでしょうか。
ある部分ですごく純粋だったのでしょうけど、一方で自分の死後のための美術史における自分の文脈作りをしていたのではないかとさえ思えて恐ろしくなります。
太宰治もあれだけ「恥ずかしい」と言いながら、膨大な作品群を残しています。自分の死ですら自分の作品の完結のための演出だったのではないでしょうか。
もちろん彼らは死後の影響力がたまたま強くて、無名で消えていった芸術家もたくさんいたのかもしれません。


さて、僕は鬱病を体験してみて、その病気の本質は何だったのかと考え、自分なりの答えを出しました。
それは「鬱病とは他人の中に自分を作ろうとする病気だ」というものです。
病気で寝込んでいる時は、活動が極端に鈍るので
「社会に申し訳ない」
「他人にどう見られているのだろうか、はずかしい」
「とにかく、だれかに弁明したい」
という思いが、頭の中を常に駆け巡っていました。

おそらく今後は鬱病になる事は無いと思います。
「他人の中に自分を作る」ことをやめたからです。
他人の中にある浅井康宏像なんて、コントロールできないし、
仮に僕が聖人のようにすばらしい人格の持ち主だったとしても。
一定数僕を嫌う人はいるのです。
僕は相手の心の中にいる自分にまで責任を持つ必要は無いと考える事ができて、鬱病は治りました。


以前作品は「相手の心の中に揺らぎを作る物」と書きました。
鬱病の特徴「他人の中に自分を作ろうとする病気」に少し似ていますね。
相手の心の中に何かを作ろうとする行為だとすれば、芸術と鬱病には似た性質があるのかもしれません。

でもやっぱり、鬱と芸術は別物です。
現代を生きる芸術活動には健康な肉体と精神がよく似合う。