作者が気になる作品、ならない作品の違いとは。

ジブリの映画は好きですか?
宮崎駿監督が再び長編映画復帰するという話があるようですね。
かなり楽しみです。

宮崎監督といえば「もののけ姫」の制作後
引退宣言をして、その後普通に復帰して、精力的に長編制作してましたよね。
「風立ちぬ」完成後、今回こそは完全引退かと思いましたが、戻って来てくれるなら嬉しい。

しかし、なぜこんなに世の中は宮崎駿という人に興味を持っているのでしょうか。
映画監督なら日本にも世界にも何百人といます。
アニメーション映画だって、何本も制作されているはずなのに。

僕は他にクリストファー・ノーラン監督(ダークナイトやインセプションを制作)
M・ナイト・シャラマン監督(シックスセンスが代表作)が好きで新作を楽しみにしています。
考えてみると、ここまでくると「作品」にではなく「作者」に興味が行っています。
「どんな作品であろうが、次の作品が楽しみだ」と思っているのです。

ではなぜこのような事が脳内で起こっているのか。
映画はストーリーを映像表現した作品です。
したがって、ストーリーがもっとも重要なはずなのに、
それを度外視してでも作家に執着している。その理由は
どのようなストーリーでも映画を鑑賞し終わった時に得られる感情が
その監督作品独自のものである。という事なのかと思います。

宮崎作品って色々なパターンのストーリーがありますが
見終わった感情に似通っている部分がありませんか?
個人差があると思うけど「生きててよかった」とか
「一生懸命生きてる人を見て勇気が出た」とか
「誰かと一緒に見たいな」とか「子供ができたら見せてあげよう」
作品全体に貫かれた、信念のようなものが
自然な形で鑑賞者である僕に、ある種の感情を提供してくれています。
みなさんはどうでしょう。

つまり、重要なのは伝わる感情であって
ストーリーはそれを伝えるための手段なのではないでしょうか。
極端にいえば、伝えたい感情さえ伝える事ができるなら
ストーリーもビジュアルも必要ないのかもしれません。

映画は毎年たくさん作られていますが、監督や原作者が気になって見る作品は限られています。
大部分の作品はストーリーを求めているけど、ストーリーの先にいる作者が気になって仕方ない作品もある。
一貫した信念がそうさせるのならば、どんな分野だって一貫性は魅力になり得ますよね。

何を表現して、どう伝えたいかという自分への問いは
自分の心の底に潜って行って、小さなかけらを見つけてくるような作業でもあって
辛い事でもあります。
「なぜ美術が必要なんだ?」という問いは漠然としすぎていて途方にくれます。
それでも、時間をかけて答えを集めてゆくのです。

ストーリーをまとった信念
造形をまとった信念
色彩をまとった信念
このような信念こそが美術の側面であるというのが僕が見つけた
答えの一つです。

自然と信念を発する人が気になってきます。
作品の先にいる人はどのような人なのか。