作品が完成した時の気持ち
作品が完成する気持ち、僕の場合
複雑です。
1作品に長く関わり過ぎていると、いろいろな意味で客観的な目線を失います。
最初に「これはいいぞ!」と考えて制作をスタートさせるわけだけど、
期間が長くなるほど、スタート地点の気持ちから時間的な距離が離れてゆき、
「完成してくれ」という祈りみたいになってきます。
特に、一粒ずつ貼ってゆく作業は修行みたいで、
途中から無心になります。
作業的には単純です。
ただ、長時間の集中力と執念が必要で
「光を具象表現する」ことを目指して実験しています。
ある程度成果は出ていると思っているんだけど、
時間がかかりすぎるからリスクが大きくて、制作費用が高い割に作品価格を上げにくいです。
制作期間が長いと、そういうことを悶々と考えることになって、
「完成した!わーい」という気持ちはありますが、
1つの日常が終わって、「さあ、次の日常へ向かいましょうか」という自分もいます。
作品には完成した時の「雰囲気」みたいなものがあります。
不思議なのは写真用に表だけ仕上げた作品には「雰囲気」ないんです。
見えないけど、裏と内側まで仕上げてでてくる「雰囲気」の正体は
手を離れて独立した作品になったという安心感かな。— 浅井康宏 (@YasuhiroAsai69) 2019年1月8日
あとは、完成した時の雰囲気を作ることについて最近わかってきたことがあって、
それは見えない部分の完成度が作品が纏う空気感であるということです。
この完成度に関して、少し前なら自分にしかわからないことだと思っていました。
だって、裏のツヤって写真ではわかりませんからね。
でも、それが作品の完成度に関わってきて、しかも、見る人にも伝わるのです。
自分で「絶対これで完成!」と言い切れる作品でないと、人の心が動かせないのです。
今だに作品の完成って複雑な気持ちになります。
「やりきった」という気持ちと「寂しさ」が入り混じります。
寂しさは、作業時間があまり長かったので、どこかで無気力になってしまうことだと思います。
自分の手を離れた作品を見るのが、人生で最も感動的な瞬間だけど、
その感情はちょっと切なくて、でも何度でも味わいたいものです。
ちなみに僕は作品を擬人化しません。
だから作品が売れても「嫁入り」という表現を使いません。
誰かに喜んでもらいたいと思って作ってるけど、
最前線で作品と向き合えるんだから、幸せな仕事です。