松田先生が思い描いた未来

ここ数日松田先生の著書について紹介してきました。
最近思うことがあります
「松田先生はどんな未来を想像していたのかな」
松田先生の目線の先を想像しようとした時、
先生が生きてきた時代について考える必要があると思います。

残念ながら、僕は松田先生に会ったことはありません。
1986年に亡くなっているので、漆に出会った頃にはすでに
歴史上の人物のような感覚でした。

さて、ここまで紹介してきた図録を一冊でもお持ちの方なら
松田権六作品が意外に少ないことに気がつくと思います。
理由としては、蒔絵製作には時間がかかり、制作点数が限られるのと
もう一点は戦争という事情もあったようです。
材料不足と、消失が主な原因で、そのあたりの事情については著書にいくらか書かれています。

松田先生の作品で戦前のものは極めて少なくて
図録に載っている作品は戦後のものがメインになります。


では松田先生の戦前の活動期とはどんな時代だったのでしょうか。
松田先生は石川県出身で東京美術学校進学のため上京します。
その前後については著書の中でわりと丁寧に記されています。
美術学校時代の恩師である六角紫水の教えを受けながら、東京にあった各流派の手伝いを積極的に行っていたと書かれています。

その当時、東京には多数の流派があって、
その技術を吸収していたのでしょう。
蒔絵の流派では主に工房体制で製作していたことが想像されます。

明治時代に日本の工芸は世界で高く評価され
多くの作品が海を渡りました。
各工芸分野は高い技術力を誇り、厳密な工房体制で
名作を送り出していました。しかし、その時期はそんなに長く続いていないのです。
最近になって日本でも再評価されている「明治の超絶技巧」ですが、
元を辿って見ると、江戸後期から明治にかけてのいわゆる「名棟梁」たとえば
漆でいう赤塚自得であったり、七宝でいう並河靖之という個人の活躍によるところが大きく
棟梁が居なくなってしまうと
「超絶技巧」も「工房体制」も半分崩壊しているような状態だったのだろうと考えられます。

その2に続く