明治の超絶技巧はなぜ消えていったのか。で、これからは?

ここ7年くらいでしょうか、
「超絶技巧」と位置付けられた明治工芸、特に技巧がこらさらたものは完全に市民系を得て、
インスパイアされた若手作家も同時多発的に現れています。
ひとえに三年坂美術館館長村田氏の情熱からなる蒐集の賜物で、
時代の雰囲気がそれに追いついたという感想を持ちます。

僕は京都の美術予備校に通っていたことがあって、三年坂美術館になんども通っていた記憶があります。
その時と今とでは明治工芸に対する国内の反応は一変しています。
もともと明治工芸は海外向けに展開された背景があり、そのため、国内に存在していた明治前後の漆作品より、
海外に存在していた作品の質・量ともに上回っていたのが、日本国内での明治工芸の位置付けの低さの原因だったようです。
村田氏の蒐集により、海外の良質な作品が買い戻されたこと、国内に分散していた作品が集められたことにより、
明治工芸の見直しが行われ、現在の超絶技巧ブームにつながってゆき現在に至ります。

さて、そこで一つの謎がうまれます。
明治の超絶技巧はあれだけの繁栄を見せたのに、なぜ短命に終わり、そして長い間国内で忘れ去られていたのか。
しっかりとした見直しが必要ですが、
作家としての目線で明治工芸の宿命を捉えてみると、
まずは、圧倒的な技術とそれを統括するのが、生身の人間であったことが致命的な原因だと思っています。
その当時の制作体制は間違いなく、工房制作です。
つまり、個人作家が一人で作品制作をしているという現在の作家イメージとは少し違っています。
そもそも、美術に関わるいくつもの言葉は明治時代に当てられた造語であり、
西洋文化を取り入れる時、日本独自の文化を無理やり定義したような背景があります。

当時の工房構成図を考えてみると
まずは、棟梁のような人がいます。
この人はプロデューサーであり、セールスマンのような存在でしょう。
制作技術がある場合もあるだろうし、全く制作には携わっていない場合もあるでしょう。
デザインは棟梁が起こす場合もあったかもしれませんが、専門のデザイナーがいたかもしれません。
そして、木地制作部門(外部)があり、塗り部門、加飾部門があったと思われます。
さらに各部門には特化した役職があり、それぞれは工程のプロフェッショナルでした。

さて、この一見合理的な構造ですが、
超絶技巧と呼ばれる細密で豪華な工芸表現が短命に終わってしまう原因にもなります。
つまり棟梁が不在になることで簡単に工房体制を維持できなくなります。
現在見ることができる明治工芸の一級品は作家目線で見ると、どれに何日くらい、そしてどれくらいの人数が携わっていたか想像ができます。
それを考えた時、棟梁を失うと、数ヶ月で経営難に陥ってしまうほどの人件費と材料費がかかっているのです。
現代に置き換えると、宮崎駿監督が監督を務めず、新たなカリスマ的監督が現れない状況で大量の映画を制作するのは難しいようなものです。

一つの工房が解散しても、技術者は存在して新しい棟梁になるなり、一人で制作を続けるにしても
制作規模の維持は難しく、工芸史から超絶技巧は静かに消えていったのでしょう。
その後、公募展が発達し、それは、より個人作家制作を推し進め、現代へと繋がる流れとなります。
振り返って見ると、江戸・幕末から続く超絶技巧が明治時代に加速して消えてゆくことも、
その後、敗戦と美術の西洋コンプレックスの中から生まれた作家主義的な制作形態も必然で、
技術の伝達のためにそれぞれ必要だったように思えます。

ではこれからどのような時代になるのでしょうか。
僕は市場の拡大と技術やコンセプトを個人の力量に収めないことが鍵になってくるように思いますし、
そういう未来を作り上げて、蒔絵の文化を強力にそして長期的に維持できる地盤を作ろうとしています。
そう考える時に海外展開とか海外のブランド戦略みたいな
海外コンプレックスをダイレクトに体現しちゃう。
矛盾です。