偏った執着が魅力だったりする
優秀な人より、ある一定の物や事に執着している人が魅力的に映ります。
これはある意味当然で、
いわゆる答えのない問いに到達している状態っていうのは魅力なんです。
学校の授業と違って、専門分野に従事していると、
ある段階から問いに対しての答えがなくなってゆきます。
もっと言えば、問いを作り出すことが仕事になります。
僕の場合、美術に関する問いを続けていますが、
「どうやったら美しいものを作れるか」という問いから
「そもそも、なぜ人間には美が必要なのか」という、答えの出難い問題へ、
日々挑戦しています。
今のところの僕の答えは
美術とは、信念の具現化であるという仮説のもと、作品を制作しています。
ではなぜ偏った執着が魅力だと考えるようになったのか。
それは、ネット情報網が主権を握っている現代だからこそ顕著なのだと思います。
以前のように情報入手が新聞やテレビ等のメディア主体だと、多くの人が共通のソースから情報を得てきました。
しかし今は違います。それぞれに最適化された情報がインターネットを通して検索できるし、提供されているから
個人の頭の中にどれだけの情報が入っていようと、ネットワークにはかないません。
ほぼすべての知識はウェブ上に日々蓄えられています。つまり、優秀さとか博識の価値が転換しているのです。
誰かに聞くより、スマートフォンで検索した方が早いのです。
しかし、専門性を突き詰めてゆくと、
ネット上に存在しない問いに行き当たります。
そんな時、オリジナルな思考を持っていて、その解決に向かう知識というのは
人間に残された人間らしさに直結するように思います。
つまり、コンピューターに代替されない数少ない領域こそ
偏った執着でしょう。
一見社会に役に立たないような執着でも、
少なくとも、人間的な魅力になります。
今後、さらにインターネットの最適化が進むと
偏りの意味合いが変化してくるでしょう。
日本に10人しかいない偏った執着でも、舞台を世界にすれば、市場は数倍になります。
ウィキペディアに載ってないあなただけの執着はありますか。